<四十五の葉>
予測

 2007年2月20日。今、僕は45歳だ。来(きた)る4月20日に46歳を迎えるが、その前に自分に対して宣言しておかなければならないことがある。僕は45歳を折り返しの歳とすることにした。勝手に“人生の折り返しの歳”と決めたのだ。45歳が折り返し点だとすると、単純計算で90歳まで生きることになる。「まだ半分か」と思うとたまらなくうれしいが、ただ喜んでばかりもいられない…。と、ここまで書いてハッとした。何かがおかしい。はたして人生とは折り返すものなのか。45歳を人生の半分とするのはいいとしても、来た道を戻るなんてちょっと考えただけでもゾッとする。言葉の綾だとしても折り返すより前に進む方がずっと魅力的だ。ここで、早くも「45歳を折り返しの歳にする」という前言を撤回して「45歳、人生の半分の地点までやってきた」ということにさせていただきたい。別に90歳にこだわっている訳ではない。当然、根拠もない。45編目のエッセイを書くにあたって数字のゴロを合わせたに過ぎない。実際に自分のこれからを予測するのはむずかしいし、できたとしてもその通りにいくかどうかは誰にも分からない。ただ90歳まで生きよう、と漠然とでも将来を思い描いてハードルを高く設定するのは悪くないと思うのだ。

 「将来の出来事やありさまをあらかじめ推測すること、前もって推し量(はか)ること」を“予測”という。似たような言葉に予想・予期・予知・予断・予見等があるが、これらはみな「未来、つまり数分後、数時間後、数日後、数年後に起こるだろうことを自分の経験や人類の歴史、あるいは気の遠くなるような年月の統計などに基づいて想像すること」でしかない。たとえば数時間後、いや数分後のことでも的中するとは限らない。日常生活で体験するわかりやすい例をあげよう。ほとんどの人が経験したことがあると思うが、階段を下りる時に「床までもう1段ある」と思って足を下ろした瞬間に(すでに床に降りきっていて)ガクンというものすごい衝撃を受けたことはないだろうか。そのショックはかなり大きくて笑うに笑えない。7、8年前だったろうか、道を歩いている時に躓(つまづ)いた。「アッ」と思った時には足を捻(ひね)っていた。躓いたところを見たらほんの数センチ、アスファルトが欠けていた。なんと完治には半年以上もかかってしまった。何の変哲もない道や何度も上り下りしている慣れた階段を利用する時に危険を“予測”する人などだれもいないが、それでも思いがけない事態に遭遇することがある。何事も“予測”通りにはいかないのだ。

 この“予測”について興味深い話がある。本題からは逸れるが紹介しておこう。たとえば、段差があるとする。段の上から飛び降りるところを想像してもらいたい。その時、下がはっきりと見えているとすれば、1メートルぐらいの段差ならたいてい難なく飛び降りることができるだろう。だが、暗闇や目隠しをされた状態で飛び降りるとしたらどうだろう。下の段まで1メートルしかないと分かっていても、きっと、ほとんどの人が怖くて飛び降りられないに違いない。目隠しをされたままで、更にその段差がどのくらいあるのか分からないような状況だったらどうだろう。なおさら恐ろしい。暗闇で高さも分からない段差を飛び降りるなんて死ぬ気でも起こさない限りできそうにもないが、この場合の結果なら簡単に“予測”できる。怪我をするのが目に見えている。最低でも捻挫は避けられないだろう。

 さて、90歳と中間点の45歳…。90歳まで生きられるとしたら、ほとんどの人はうれしく思うに違いない。もちろん、僕だってうれしい。ただし、この「90歳まで」というのにはさまざまな条件がある。単に90歳まで生きられればいい、というのではない。まず“心身ともに健康な状態である”ということが原則となる。これは重要だ。SF映画のように科学の進歩で肉体が滅んでも、脳さえ生きていれば半永久的に生きられる、なんて言われてもまったく賛同できない。次に、衣食住に必要なお金があるかどうか、ということも大事だ。テレビで見た限りだが、100歳を超えても元気どころか、現役で仕事をしている人たちが多いのにもびっくりした。見事としかいいようがない。そんな(本当の意味での)人生の達人たちは皆、朗(ほが)らかで笑顔が美しい。やはり“笑顔”は長生きの秘薬なのだ。

 健康で長生きしている人たちからはもうひとつの共通点が感じられた。「健康で長生きすること自体が目標なのではない」ということだ。穏(おだ)やかな表情は「長生きしようとして生きてきた」のではなく「ただ楽しんでいるうちに長生きしてしまった」という空気を纏っていた。長生きの秘訣としてよく挙げられるのが、僕たちのようなミュージシャンに一番欠けている“規則的な生活”や現代人に不足がちな“野菜中心の食事”だ。なるほどと思えるが、それほど気を使って生活しているとも思えない人もいた。煙草をうまそうにのむおじいさんがいた。規則的と言えば規則的なのだろうが、24時間寝て24時間起きているというおばあさんもいた。

 数日前に、長生きとは対照的な映像も見た。プロジェリアという難病に冒されながらも前向きに生きている15歳の女の子アシュリーの話だ。フジテレビ系列のドキュメンタリー番組で4年前からシリーズで放送しているから見たことがある人も多いと思う。プロジェリアというのは遺伝子の異常のため肉体が普通の人間の10倍のスピードで老いていく病気だ。治療法が見つかっていないため患者のほとんどは13年くらいしか生きられないが、アシュリーは奇跡的に15年目を迎えている。15歳にして肉体年齢がすでに100歳を超えているアシュリーには“予測”すべき未来はわずかしか残されていない。「今日で人生が終わっても受け入れる準備はできている」と何気なく語る彼女は天使にも見えた。そう語りながらもアシュリーは決してあきらめてはいない。「両親が老いたら一人で暮らすことになるだろうから、働かなくちゃ」自分の人生は短いだろうと“予測”はしつつも、“希望”を持つことも忘れてはいなかった。僕には、彼女から何かを学んだなんて言えない。姿を見つめるだけで精一杯だった。だが、その姿から「人生の意義を決めるのは時間の長短ではない」ということを改めて思い起こさせてもらった。人生は長いが短い、そして短いが長い。この宇宙は“永遠”でもあるし“一瞬”でもあるのだ。

(C)2007 SHINICHI ICHIKAWA
----------------------
PAGE TOP
目次
ESSAY TOP
HOME