<七十五の葉>
醍醐味

 ぼくは渾身の力を込めてバットを振った。踏み出した左足と踏ん張る右足の2点を軸にして足首から膝、膝から腰へと回転を上半身に伝え、引きずられるようにして飛び出そうとするバットにぎりぎりまで我慢させ、その力が限界点に達しようとした瞬間に右の脇をギュッと締め、核爆発さながらに凝縮されたエネルギーを矢のごとく解き放った。

 『ゴオッ!』と音を立てたバットはむなしく空を切った。だが残ったのはすがすがしい満足感だけだった。『七十二の葉』でもちょっと触れたが2007年11月吉日、2年振りに参加した野球の試合(※押忍の会:四の葉参照)での話だ。2打席凡退後の最終打席、初球は空振りのストライクだった。外角低めのストレートは見逃せばボールだったと思うがそんなことはまったく関係ない。ぼくはこの初球に持てる限りの“気”を集中させフルスイングしようと決めていた。ストレートでも変化球でも、たとえボールであっても思い切り振ろうと決めていたのだ。この思い切りは幸運な結果を生む。後で聞いた話だがあまりの“空振り”ぶりに審判にまで『打たせてあげたい』と思わせてしまったようだ。

 この日はバットがボールに当たりさえすればいいと思っていた2年前の試合とは明らかに気持ちが違っていた。2年前は野球をすること自体が約20年振りだったこともあって打席に入ることさえ怖かった。マウンドとの距離感がまったくつかめないからタイミングが取れない。何よりもピッチャーの投げる球そのものが恐ろしかった。スピードにもついて行けずまともなスイングさえできなかった。気持ちの面で一歩退けていたのだ。あまりに悔しくて最後の打席だけは向かっていったのだが結果は出なかった。ただこの最後の打席が今年につながった。今年は全打席向かっていくと決意し、芯に当てることを目標とした。『カキーン』と快音を響かせたかった。気持ちが違うと何もかもが変わってくる。何と1打席目から芯に当たってしまったのだ。スッと出したバットにボールが当たり打球はライナーでライトのグローブに吸い込まれた。『やった!』ヒットにはならなかったが『信じられない』本当にそう思った。2打席目は内角のカーブをこすり上げてしまいキャッチャーフライに倒れたがそれでも1打席目の当たりがある。芯に当てるという目標を達成できたのだがらあとはおまけのようなものだ。最後の打席は思い切り振ってやる。そう決めての第3打席だった。

 現役時代の長島茂雄選手ばりの空振りで肩の力が抜けた。2球目はインコースに食い込むストレート、デッドボールになりそうだったが(そんなのは絶対に嫌だ。)体は鋭く反応した。腰を引いて難なく避けた。1ストライク、1ボール。第3球目、ピッチャーに顔を向けバットを構えた瞬間に不思議な感覚に包まれた。時間が止まったかのような…重力がなくなったかのような…あるいはジグソーパズルの最後の1ピースがはまった時のような…。まるでこれが“無”の境地かと思わせるような瞬間だった。ピッチャーの投げた球は引き寄せられるかのようにバットの芯にまともに当たった。自分の体ではないと錯覚するほど力みのないスイングは体軸だけでボールに反応していた。ボールがバットに当たった衝撃さえも感じなかったように思えた。次の瞬間、ボールは“空の中”にあった。『もしかして…』見逃してはならぬと目が必死でボールを追う。大空に舞い上がった白球はまだ“点”だ。ぐんぐんと伸びているようにも見える。ぼくの目はすぐにライトの選手を捕らえた。『!』背走している。『オレは…打ったのか…?』信じられない光景に一瞬我を忘れかけたがとにかく夢中で駆け出した。『ボールは抜けた!!!』『ほんとかよ!』気持ちだけが前に進み体を引きずるので精一杯だ。1塁ベースの前で大きく膨らみ2塁ベースを目指す。ベースランニングは30年以上経っても体に染み込んでいるから驚きだ。この時1塁ベースをしっかり踏んだかどうかも覚えていない。2塁ベースに近付いてもライトの選手はまだ背中を見せている。『みっつだ!』ぼくは2塁ベースも蹴った。3塁手はまだボールを受ける素振りを見せていない。ぼくは滑り込まずに3塁に達した。『はあはあはあ…』急に自分の激しい息遣いだけが聞こえてきた。そこでぼくはやっと我に返りベンチに向かって右手を高々と掲げた。この時の白球が青空に舞い上がっていく“絵”はぼくの心の奥底にしっかりとプリントされた。

 このような“絵”を誰もが1枚や2枚は持っている。何万人もの観衆の中でプレイするプロ野球の選手やメジャーリーガー、また高校球児に限った話ではない。何万人もの観衆に沸くドーム球場だろうが、観客のひとりもいない空き地だろうが“喜び”や“満足感”に差はないと思うのだ。好きなことに真剣に向き合っている人、取り組んでいる人なら必ず“真”の醍醐味を味わうことができる。プロとアマ、レベルの高低等はまったく関係のないもっと深い次元での話なのだ。これは野球だけに限らない。バンド活動でもまったく同じことが言える。武道館だろうが小さなライブハウスだろうが“一音”の価値に変わりはない。プロの中にも本当の醍醐味を知らない人がいるし、アマでも心底愉しむことのできる達人がいる。真の醍醐味はその人の心が味わうものなのだ。

 笑われるかもしれないがぼくはある意味、大好きなイチロー選手と同じ境地を体現することができたと思っている。もし、イチロー選手と話をする機会があったら「分かります!」きっと、こう答えてくれるに違いない。あの日の“絵”は心の奥にしまい込んでいた野球に関する他のたくさんの“絵”をも思い起こさせてくれた。グローブを買ってもらったときの“絵”を…生まれて初めての打席での“絵”を…はっきりと思い出した。これらの“絵”はまたの機会に紹介しようと思う。大空に打球が舞うような“絵”は数少ないが、こと野球に関してのエピソードには困らない。最近テレビで見た現代美術館のキュレイターを見習って(それは素晴らしい番組だった。)それぞれの“絵”をどう並べるか、雑煮でも食べながら考えてみようと思う。

 ぼくが3塁打を打ったときベンチの上の観客席には母がいた。母は友達と何気なく見に来ていたらしいが、ぼくの“おいしい場面”によく巡り合わせるものだと感心した。父もグラウンドに来てはいたが残念ながら試合を観るのに飽きた甥っ子たちとブランコを揺らしていた。

(C)2007 SHINICHI ICHIKAWA
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