<八十一の葉>
ノリオの日常
じゃすてぃす(一)

 「ギターがほしい」ソウタが遠慮がちにつぶやいた。「ギター?」予想もしていなかった反応にノリオは携帯電話をしっかりと握り直した。「へえ、ソウタはギターがほしいんだ。どんなギターがいいの?」ノリオは努めて冷静に聞き直した。「ノリオジのお家にあったみたいなやつ…」同僚にして親友であるヨウヘイのひとり息子ソウタがノリオに対してほしいものをはっきりと口にしたのは初めてのことだった。

 2月に入ったばかりの日曜日の午後2時すぎ、ノリオはプロペラカフェというカフェにいた。その店はある雑誌の美味いもの特集で紹介されており、彼は以前から機会があったらぜひ来てみたいと思っていた。この店はちょっと変わった場所にある。場所が場所だけに空いているだろうと高をくくって来てみたのだが甘かった。店は家族客で大いに賑わっている。子供たちのはつらつとした声が重なりカフェ内のボルテージは高いが嫌な感じはしない。満席状態だったが幸いノリオはすぐに席に通された。お腹が減っていた彼は取るものも取りあえず食べ物を注文した。メニューに載っていたのは8品。写真の中のオムライスとロコモコに目を奪われたが一瞬迷った末にオムライスに決めた。ホットチャイも一緒に注文すると一息ついて窓の向こうを眺めた。

 このカフェは空港に併設されている。東京都には羽田空港の他に都営空港が7ヵ所あることはあまり知られていないが、そのうちのひとつ調布飛行場は調布市と三鷹市にまたがる小さな空港だ。ノリオはこの空港の前を何年か前に車で通ったことがあり存在自体は知っていた。調布飛行場からは新中央航空という聞き慣れない航空会社が大島、新島、神津島へ1日3便ないし4便を運行している。19人乗りのプロペラ機、時速410キロのドルニエ号が飛ぶ。大島までは30分、新島までが35分、そして、神津島まで40分だ。料金は片道\9,500、\13,700、\14,900…思ったほど高くはない。カフェは飛行場の格納庫に隣接している。直接飛行機に触れることはできないがプロペラ機やセスナ機を間近に見ることができるのだから子供にしたらたまらない。店内には大小の飛行機の模型がところ狭しと並んでいる。飛行機が滑走する度に子供たちは大きなガラス窓めがけて飛んで行く。窓の向こうには短いがしっかりとした滑走路が横たわっているのだ。その先にある味の素ドームが小さく見える。

 ノリオの記憶にある調布飛行場はこじんまりしていてカフェがあるなんて想像もつかなかった。『あの辺りにそんな店があるのかなあ』ノリオはその日の午後調布飛行場を目指した。第1駐車場に車を停めると飛行場の入り口に向かった。まず目に入った看板に書いてあるのは大島・新島・神津島の文字と→(矢印)だけだ。ノリオは『ははは、こっちが大島ね』とにやけながら先を急ぐ。50メートルほど歩くと空港ターミナルの入り口があった。ターミナルと言っても大きめのコンビニぐらいの建物だ。入り口から中を覗いても店らしきものは一軒もない。販売機があるだけだ。『おかしいなあ』と思いながら入り口の右側を見るとそこには別の建物があり、中にはガードマンを兼ねた係員らしき人が座っていた。真剣な顔つきだがよく見ると暇そうだ。『無駄足を踏む前に聞いてみるか』ノリオはいそいそと窓に近づいた。期せずして窓はサッと開き「どうしました?」やさしい笑顔で声をかけてくれる。「あの、すみません。プロペラっていうレストランに行きたいんですが…」聞くやいなや、いや厳密に言うとノリオの言葉が終わらないうちにその声は反応していた。「はいはい、プロペラね〜…」ガードマンらしき人はやけに楽しそうだ。そして、きちっとパウチされた地図を示し場所を丁寧に説明してくれた。彼が指差したのは意外な場所だった。『へえ、そんなところにあるんだ。歩くとちょっとあるかな…急ごう』ノリオは「分かりました、ありがとうございました」と元気に告げると振り返り歩き出した。そのときだった。ノリオの目に『プロペラカフェ』と大きく書かれた案内が飛び込んできた。なんということはない。カフェへの案内は空港の入り口にはっきりと張り出されていたのだ。『オレの目は節穴か?いったいどこを見ていたんだ』と恥ずかしく思いながら同時にハッとして後ろを振り向くとガードマンらしき人がこちらを見てふふふと目だけで笑っている。ノリオは悔しさを押し殺しニッと微笑み返すしかなかった。

 後味の悪さを振り切ろうと早足で来た道を戻り始めるとそこでもカップルが空港関係者らしき人に道を尋ねていた。「たしか、プロペラだよな」長髪の男が派手な紫色のダウンを着た女に聞いている。『!!このふたりもあの店に行こうとしているのか』更に足を早く回転させようとしたその瞬間、ノリオは見た。カフェの場所を聞いているカップルと空港関係者のすぐ後ろにもプロペラカフェの案内が大きく貼られているではないか。『オレもさっきここを通ったよな…とほほ』ノリオは肩を落とした。彼は来る前からカフェは空港ターミナルの建物の中だと決めてかかっていたのだ。このように何かを100%信じ込んでいる人間には見えるものも見えない。“決め撃ちは見失いの元だ”とノリオは何度も心に言い聞かせながら歩き出した。『ここの人たちはみんないい人だなあ』と感心しつつ『本日の定食が残りひとつだったらやばい』とみるみる足を速めた。

 ノリオの元にオムライスが運ばれてきた。料理の待ち時間もちょうどいい。がぶっと勢いよく食らいつくと程よく絡まった卵の中からオレンジ色のチキンライスが香るように弾けた。ケチャップの酸味と鶏肉とタマネギの甘さが絶妙にマッチしている。『う〜ん、美味い!』予想外の味にノリオは何度も舌鼓を打った。そして、なるべくゆっくり食べようと努力はしたもののあっという間に胃袋に収めてしまった。最後の最後まで卵に包まれたご飯(チキンライス)が冷めなかったのは特筆に価する。ノリオは大満足だった。食後の余韻に浸りながらゆったりチャイをすすっていると急に周りの声が耳に入ってきた。『食べている間は一切聞こえなかった…人間てあまりに単純だなあ』ノリオは『オレは』と言うべきところを『人間は』に置き換えてつぶやいた。

 「入学祝いには何をあげましょうかねえ」「ランドセルは誰に買ってもらおうか」隣の席では今年小学校に入学する子供たちとその親たちがお祝いの品、プレゼントの話に花を咲かせていた。ノリオは何気なく聞こえてくる声を聞きながら『ソウタにも何かお祝いあげたいな』と考え始めていた。ソウタは小学1年生。豪快なヨウヘイの息子だとは信じられないほどおとなしい。『そういえば去年の入学祝いにもたいしたものはあげてないや。』ノリオの頭の中はソウタのプレゼントのことでいっぱいになった。

 ソウタに進級祝いを贈ろうと決めたノリオは店を出るなり携帯電話に手をかけた。日差しはなんとなく暖かいが風はまだまだ冷たい。「さぶっ!」思わず言葉がこぼれてしまう。トゥルルル…と鳴る呼び出し音を確認するとノリオは急いでマフラーをカバンから取り出し首にからめようとした。「おう、ノリ、どうした」マフラーを巻き終わる間もなくヨウヘイの大きな声が小さなスピーカーから響いてきた。耳から4、50センチも離れている携帯電話から聞こえてくる。「ソウタいる?」「ソウタね、ちょっと待って」すぐにソウタが出た。「…ソウタだよ。ノリオジ?」ソウタはノリオのことを “ノリオジ” と言う。たまに“ノリオジ”の“ジ”が“ジー”と伸びることがある。そんな時は“おじ”ではなく“おじい”と聞こえてちょっとだけ切なくなるのだがそんなことはたいした問題ではない。「ソウタ、今度2年生だよな。ノリオジさ、ソウタに何かお祝い買ってあげたいんだけど何かほしいものない?」今までのソウタならしばらく考えた挙句「…なんでもいい」と言うはずだった。だがこの日は違った。一瞬の間をおいてソウタがほしいと口にしたのは“ギター”だった。『ギターか…買ってあげたい!』ノリオは小学2年生のソウタにふさわしいギターを探すことにした。(つづく)

(C)2008 SHINICHI ICHIKAWA
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