井の頭線から田園都市線まで、乗り換えの道のりを私は両手を振って歩いた。私の手の平の上で英気を養ったぶんきちは既に居場所を変えていた。彼は生気にあふれ、手の平の上などではとても収まらんとばかりに力を持て余し始めていたのだ。彼の新たなフィールドは私のポロシャツだった。綿の生地に6本の足をしっかりとくい込ませ、上へ上へと歩みを重ねている。

  私は子供の頃を思い出した。小学校に上がる前だったろうか。近所のガキ大将にカブト虫をもらった。初めてのカブト虫、うれしくないはずはないのだが、喜びという感情はそれほど湧いてこなかった。カブト虫が雌だったからだ。女性には申し訳ないが、カブト虫の場合、雄と雌とでは雲泥の差がある。角!あの見事な角!角にこそ、底知れぬ魅力があるのだ。雄のカブト虫には頭角と胸角があり、ともに二叉に分かれている。頭角は小さな頭からスッと伸びている長く平べったい角で、この角を使って鋭い歯を持つノコギリクワガタさえも投げ飛ばしてしまう。ちなみに 『頭角を現す』 の頭角とは鹿の角のことで、群れの中で一頭だけ角をぐっと高く見せる様子から大勢の中で秀でて目立つことを言う。

  胸角は我々の感覚で言うと背中から生えているように見えるが、昆虫の体は頭部、胸部、腹部から成っているため、胸部に生えている角という意味らしい。この胸角も敵を攻撃するための武器となるが、カブト虫を手にする子供たちにとっては取っ手の役割をしている。ここを掴むと持ちやすい。時には、この胸角に糸を縛りつけ、反対側の糸の先を握って大きく振り回したりした。子供の遊びは、時に残酷さを内包している。カブト虫は、昼間は滅多なことでは飛ばない。この時のカブト虫は飛んだのではなく、無理やり飛ばされたのだ。ぶううううん、大きな羽音と共に開いたあざやかなオレンジ色が忘れられない。

  私は雌など欲しくはなかった。その時、ガキ大将のTシャツには20匹以上の雄のカブト虫が這い回っていたのだ。なのに、私には雌のカブト虫…。ひどすぎる。しかし、雄をちょうだいなんて口が裂けても言えなかった。ガキ大将の存在感は特別だった。大人の世界では例(たと)えようのないほど特異な存在なのだ。その絶対性は、猿山のボス猿以上だと言い切ってもいい。彼は、ものすごい数のカブト虫が集まる特別な木の存在を知っていた。それは彼だけが知る神聖な木であり、彼以外の者は、たとえ知っていたとしてもその場に近づくことさえ許されなかっただろう。

  それでも、別のルートで雄のカブト虫を手に入れた私は、ガキ大将の真似をしてシャツに這わせた。母方のおじいさんが捕まえてきてくれたのだが、あの時のうれしさと言ったらなかった。二浪の果てに音大に合格した時の感動にも勝る。私はカブト虫を這わせたまま自慢げに近所を歩き回った。カブト虫は木だろうが私の小さな体だろうが、上へ上へと向かって歩く。首の近くまで這い上がって来るたびに、私は胸角を掴んではシャツの一番下へと戻した。時には上がってきたのに気付かず、いつの間にか肩から背中に回っていたこともあった。そんな時は、カブト虫がどこか飛んで行ってしまったと絶望したものだ。当時は、かなぶんなどは問題外だった。眼中になかった。そんなかなぶんでも今では懐かしく、ぶんきちを胸に付けて歩いている間はなぜかちょっとだけ誇らしくもあった。

  田園都市線N駅に着いた。川とその両岸に立ち並ぶ木々はすぐ先にある。目的の木々がぶんきちに適すかどうか気にはなっていたが、私にできるのはそこまでだった。とりあえず、木に放てばどうにかなるだろうと考えていた。あとはぶんきちの運次第だ。健闘を祈るしかない。川岸に立った私は、ぶんきちを掴もうとした。2本の指で挟もうとしたその瞬間、彼は指の間からこぼれ落ちた。あっ!だが、ぶんきちは見事に羽を開き、楽々と着地した。これで安心だ。私は、目の前にあった木の幹にぶんきちを這わせた。彼は喜々として登り始めた…ように見えたが本当のところは分からない。私は、元気でやれよとばかりにその場を離れたが、すぐに、そうだ!と引き返し、携帯電話に付いているカメラで彼の姿を数枚収めた。小学校2年生の娘にぶんきちの話をするときのためだ。


  1時間半後、仕事を終えた私はぶんきちと別れた木の辺りへと回り道してみた。彼が未だにそこにいるとは考えられなかったが、なんとなく気になっていたのだ。私は、通りかかった近所の人らしき老人に尋ねてみた。すみません、これは何という木ですか?これかい?桜だよ、ここは桜並木だ。ありがとうございました。そうだ、桜並木じゃないか。春になると見事な花を咲かせる桜を、私は毎年のように眺めているじゃないか。そんなことを忘れるなんて人間の、いや、私の記憶はどうにかしている。それにしても桜の木も気の毒だ。花が咲くころの数週間だけはあれだけ注目されるのに、数ヶ月も経つとただの木になってしまう。こんなに青々と茂っているのに何の木だったか忘れられてしまうなんて。私はあまりに無粋な自分自身に呆(あき)れてしまった。私たちは、一体どれほどの木の名前を知っているのだろう。数式を覚えるよりも大切ではなかったか。今になって気付くのだ。


  私は、ぶんきちを放した木をしばらく眺めるとその場を後にした。帰りの電車の中で、私はふと考えた。私の行いは、形としてはぶんきちを助けたことになる。だが、果たしてそれでよかったのだろうか。きっかけはともかくとして、こんな遠くにまで連れてきてしまって本当によかったのだろうか。私の身勝手な行動だったのではないか。自己満足だったとは言えないだろうか。今後、ぶんきちにどんな運命が待ち受けているのかは想像も付かない。かえって苦しい思いをする羽目に陥るかもしれないのだ。そんなことを考え始めたら、様々な情景が浮かんできた。ぶんきちや〜い!ぶんきちあにい〜!おにいちゃ〜ん!ぶんきちの家族の必死の捜索が映像として浮かんでくる。そうだ!ぶんきちの家族にしてみたら私はただの誘拐犯でしかないではないか。理由は何であれ、ぶんきちを遙か遠くの桜の木に置き去りにしてきた事実は変わらないのだ。かなぶんにどれだけの家族愛があるのか、なんてことは誰にも分からない。ましてや、学問などで解き明かされるレベルの問題ではない。本当のことを知っているのは神様や仏様だけだ。ただ、その昔、テレビアニメみなしごハッチの再放送を見て涙していた私にとっては、ぶんきちの家族愛はおおいにありえた。私は凶悪犯と呼ばれ、かなぶん界の敏腕警部に追われているかもしれないのだ。早く帰って、そんなものはいらないと頬を膨らます娘に無理やり買ってやった昆虫図鑑を開かなくては。私は急にそわそわし出した。 (つづく)

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