体の芯までがうだるような暑い日が続いている。8月の空は地上に向けて容赦なく熱波を浴びせ、夕方には熱帯を思わせるような土砂降りの雨が突き刺さる。こんな雨には夕立という言葉を使う気にはなれない。日本の雨らしい情緒がまるで感じられないからだ。

  この時期になると、新聞やテレビ欄には原爆投下や終戦の文字が躍る。ご存知の通り、日本は世界で唯一の被爆国だ。原爆という恐ろしい兵器で攻撃されたたったひとつの国なのだ。今年の8月6日8時15分、ぼくはたまたまテレビの前にいた。そこに映し出されていたのは広島平和公園で行われた記念式典だった。静寂、緊張感、そして、陽射しの強さが画面を通して伝わってきた。式典の意義は痛いほど心に沁みた。中でも、広島市長のスピーチは素晴らしいものだった。「核兵器のない世界を作ろう!」 と呼びかけた世界で唯一の原爆使用国の大統領、オバマ氏の精神を称え、共に歩もうと高らかに宣言した。


  ぼくが、原爆は絵空事でも遠い歴史でもないと悟ったのは11歳の時だった。学んだのは教科書からではない。1973年から少年ジャンプに連載された 「はだしのゲン」 という漫画からだった。ぼくたちの世代の多くは、同じ年頃の少年ゲンの目を通して原爆の恐ろしさを知った。読み始めた頃は、あまりの悲惨さに本当のことなのかと疑い、こんなことを信じてもいいのだろうかと自問した。それでも、戦争がどんなものなのかということを理解できる年頃には達していた。ただ、当時のぼくには昭和20年は、はるか昔に思えた。

  1988年だったか、ぼくはNUDEというバンドで広島を訪れた折、メンバーと平和記念資料館を見学した。この資料館は、1994年に改築されている。改築後も訪れてみたが、内容はだいぶ違っていた。1994年以前の資料館は展示物も建物ももっと生々しく、息苦しささえ覚えるほどだった。事実を知ることがこんなにも辛いなんて…。ぼくは、しばらくの間言葉を失ってしまった。広島在住の友がいる。彼もベーシスト、素晴らしい音楽家だ。彼がメキシコのフェスティバルに参加したときのことだ。司会者が、このベーシストは広島から来たと紹介した。観客はざわめいた。彼の見事な演奏と HIROSHIMA という言葉が観客に何かを感じさせたのだ。それほどまでに広島という言葉は力を持っている。HIROSHIMA、NAGASAKI という響きは、世界の人々の胸を打つのだということを改めて思い知った。


  長崎の平和公園には足を踏み入れたことはないが、この公園の象徴である平和祈念像には会い見(まみ)えたことがある。この凛々しい平和祈念像を制作した北村西望の作品が、井の頭自然文化園内に展示されており(北村西望彫刻館)、建物の中心には、平和記念像の原型が厳(おごそ)かに佇んでいる。平和記念像は神の愛と仏の慈悲を象徴しているそうだ。垂直に高く掲げた右手は原爆の脅威を、水平に伸ばした左手は平和を、横にした右足は原爆投下直後の長崎市の静けさを、立てた左足は原爆の恐怖を表している。そして、軽く閉じた目は原爆犠牲者の冥福を祈っている。

  今年の8月6日、原爆症認定を求める集団訴訟、いわゆる原爆症訴訟の原告を全員救済するという政府の方針を首相が発表し、被爆者団体の代表らと共に集団訴訟終結に関する確認書に署名した。原爆症認定問題は全面解決に向けようやく動き出した。麻生太郎首相の総選挙に向けた人気取りとも言えなくもないし、本当の意味での全面解決とはいかないという。だが、苦しい思いをしてきた被爆者の方々にとっては朗報だろう。原爆投下から64年。国とはその程度のものなのか。

  8月4日、アメリカである調査の結果が発表された。『原爆の使用は正しかったか…否か…』 という問題についてだ。キニピアック大学が全米の有権者2409人を対象に行った世論調査によると、60%以上の人が原爆投下は正しかったと答えた。第二次大戦の恐ろしさが記憶に残っている世代ではその割合が高くなる傾向にあり、55歳以上では支持する人の割合が4分の3に達している。原爆を投下しなければ自国の兵士たちが多数犠牲になったはずだ、という理由からだ。だが、よく考えると、このようなアンケートが行われること自体が 『本当に正しかったのか』 と自問し続けていることを証明している。アメリカでも多くの国民が心を痛めているということなのだろう。18歳から34歳までの年齢層での支持率は50%にとどまっており、冷戦時代の核の恐怖の下で育った世代以下では、原爆投下を支持する意見は少なくなっていると分析されている。


  最後に、もうひとつだけこの戦争に因(ちな)んだ話を。土家由岐雄によって書かれた童話に 「かわいそうなぞう」 がある。戦時中、上野動物園でやむなく餓死させられた3頭の象の話だ。聞いたことがあるという人も多いはずだ。戦況が悪化をたどる昭和18年8月都長官命で上野動物園に 「猛獣類処分」 が通告された。空襲で檻が破壊され動物が脱走するのを未然に防ぐためだ。銃殺では世間を不安にさせるから毒殺でということになった。その日から飼育係の人たちは苦悩する。わが子同様にかわいがってきた動物たちを自らの手で殺さなければならないからだ。戦時下では拒否など許される訳はない。猛獣たちは毒入りの餌を食べ次々と死んでいった。だが、象だけは敏感だった。毒入りのジャガイモを口にすると吐き出し、再び食べさせようとすると今度はハナでつかみ飼育係に投げつけたのだ。結局、3頭の象は毒入りの餌を拒み、餓死を選んだ。誇り高い死に様だった。100年に一度の不況とささやかれて久しいが、考えてみよう。戦中、戦後の不況とは比べようもないではないか。誰がそんなことを言い始めたのだ?頷いたのは誰だ?


  8月6日と8月9日。日本で最も暑い季節に幾万の命を消滅させたふたつの爆弾。広島でリトルボーイが炸裂したのが8月6日、ファットマンが長崎の空を粉々にしたのが8月9日だ。6日と9日、6と9…。ぼくは10代の後半、原爆を投下された日をロックの日と覚えた。そして、偶然にも6と9を足した15日が終戦記念日となる。

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