ノリオがスリとの遭遇に思いを巡らせていたのはわずか数分のことだった。噴出した冷や汗はようやく乾き始めた。ノリオは大きな深呼吸を繰り返した。

  旅行ガイドには必ず 『安全とトラブル』 なる項目がある。本を捲(めく)ると目次、地図ときて、国旗、正式国名、国家、面積、人口、首都、宗教、言語、通貨など、その国に関する情報が続く。多くの場合、安全についての記述はそのすぐ後だ。それほど重要な項目なのに、大抵の人はさっと目を通すだけでやり過ごしてしまう。『スリ、置き引き、引ったくりといった窃盗被害はマドリッドやバルセロナなどの大都会に限らず、地方の観光地でも発生している。』 とか 『路上や地下鉄内、旧市街の裏通りでの被害も大きい。レストランやホテルでの置き引きにも気をつけよう』 あるいは 『早朝はもちろん、人通りが少くなる昼休みも外出を控えるのが無難。怪しい人物が付いてきていないか常に周囲に気を配るなど、相手に隙をみせないようにするのも予防のひとつ・・・』 このように、ごく当たり前のことが書かれていることも原因のひとつなのだろうが、理由はそれ以外にもある。多くの人が自分は大丈夫、自分だけは大丈夫と思いこんでしまっている節がある。薬の注意書きや電化製品の分厚い説明書のように、読みもせずに分かった風になり、目では文字を追いながらも頭にはまったく入ってこないということになってしまうのだ。現代人のこの習性は希に重大な失敗を引き起こす。あのとき、ノリオは疲れていた。ボーッと歩いていたのは事実だ。狙われたのも当然だったのだ。ウエストポーチを巻いていたのはノリオとタカギさんだけだった。ウエストポーチがどれほど危険なものなのか、ガイドブックに明記するべきだとノリオは思った。


  旅行ガイドの巻頭を何気なくパラパラとやっていたノリオは目を見開いた。そこには信じられないようなことが記されていた。「スペインに滞在する外国人は身分証明書の常時携帯が義務づけられているが日本人旅行者に限り、パスポートの原本は持ち歩かなくともいい・・・」 『な、なんだって?・・・日本人に限り?』 『なんてことだ。日本人は狙われているんじゃないか』 ノリオは寒気がした。日本人だけは本物のパスポートを持ち歩かずにホテルのセーフティーボックスなどに保管するように、日本人だけはパスポートのコピーを持ち歩くようにと言っているのだ。この事実だけで、どれほど多くの日本人が被害に遭っているのかが分かる。被害者の誰もが、まさか自分が当事者になるなんてその時まで思ってもいなかっただろう。


  それほど平和な国に住んでいるのだ。近頃は簡単には受け入れ難い事件も発生するようになってしまったが、日本の安全度はいまだに世界トップクラスだ。ノリオは東京での出来事を思い出した。地下鉄の駅で電車を待っているときのことだった。見知らぬ外国人がノリオのリュックのジッパーが開いていると教えてくれたのだ。ほんの7、8センチ開いていただけだったのに、その外国人は信じられないという顔をしていた。そういえば、外国人はジーンズの後ろポケットに財布を入れている日本人を見て唖然とするらしい。彼らの常識からすると盗ってくれと言わんばかりに見えるというのだ。

  日本では車に荷物を積んだまま駐車しておくというのは普通のことだ。仕事帰りに車を停めて食事するなんてことは日常茶飯事だし、仕事の道具を車に積みっ放しにしておくこともめずらしいことではない。だが、これは日本でだけ通じる常識であり、日本以外のほとんどの国では車内に何か金目のものがあると分かれば、いや、金目のものでなくても何か荷物があると分ければ窓を割られるか、ドアを壊されてしまうかのどちらかだ。いずれにしても、これが世界の “常識” なのだ。盗まれたと騒いでも、車内に荷物を置いたままその場を離れた方が悪いという日本人からすると変な理論が成り立ってしまう。これこそが世界標準だと肝に銘じておくべきなのだ。『海外に出る時は、ある種の覚悟を決めなければならないんだ・・・』 ノリオは、そう思いながらも平和な国に生を受けたことに感謝しなければと思った。


  その瞬間、ノリオは胸に重さを感じた。心の底から湧き上がってくる感情が胸を締めつけた。その思いは恐ろしさと怒りと哀しみと悔しさが混ぜこぜになったような今までに経験したことのないものだった。この世には盗むことが仕事であり、盗むことでしか生きていけない人たちがいるということを実感として知ってしまったのだ。彼女たちは、まぎれもなく盗みの “プロ” だった。プロというのはその行為によって生活の糧を得ている人のことだ。日本では小さな頃から盗みは悪いことだと教える。だが、世界には我々とは異なる社会的規範を持つ人々もいる。それ故に社会に融け込めず貧しい生活を余儀なくされて、盗みは生き抜くための道だと教えられる人たちもいるのだ。そんな環境から飛び出して行こうとする人もいるだろう。しかし、生活環境を変えるのは簡単なことではない。どんな道であれ文化は文化なのだ。何世紀にもわたって虐(しいた)げられ蔑(さげす)まれてきたその事実とともに、憎しみや恨みの心も伝えられてきたに違いないのだ。『想像すらできない・・・』 ノリオは、なぜか彼女たちの幸せを祈っていた。何もできないことは分かっていても、どうしようもないことだとも分かっていても、ただ、ただ心が勝手にに祈っていた。


  『彼女たちも笑うのだろうか・・・』
  『どんな顔で笑うのだろうか・・・』

  遠くなっていくバルセロナの街を見下ろしながら、ノリオはまだそんなことを考えていた。帰ったら母さんと父さんに会いに行こう。ノリオは目を閉じて、もう一度深呼吸した。 (完)

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