1時間半にわたる野外での任務を・・・失礼、交通安全活動体験講習を終えたオレたちは、第3教場へと凱旋した。数時間前とは打って変わって、教場内の空気は明るい。どんよりした重い空気は跡形もなく消え去り、どの顔も充実感と満足感であふれていた。とても同じ教場とは思えない。場所の空気とは、その場にいる人間の心理が作り出すということがよく分かる。雰囲気というものは、気分や気持ちでこれほどまでに変わってしまうものなのだ。特に、職場のようにいつも同じ顔ぶれが集う空間では、指導者の心の在り方が大きくものを言う。リーダーシップとはただ鼓舞したり、激励したりすることではなく、部下の心の置き場所を整え、気持ちよく前を向かせることなのだとオレは改めて肝に銘じた。

  休み時間が終わると、点数制度に関する指導があり、曖昧だった点数についての認識を整理することができた。違反講習を受けたオレたちは、基本的には違反がチャラとなり、まっさらな状態に戻れる。だが、こんなことを繰り返しやっているようではいけない。そろそろ交通違反とは縁を切ってもいい頃だとオレは深く反省し、このような気持ちにさせてくれた教官たちに感謝せずにはいられなかった。そして、その教官に対する思いを表すときがやってきた。

  最後の講習は、一日を振り返る考査の時間だった。いわゆる感想文を書くのだ。A4の用紙を配り終えると教官は言った。

「皆さん、今日は本当にお疲れさまでした。なぜこんなことするのかと思った方も大勢いらっしゃったでしょう。それでも、皆さんは一生懸命に取り組んでくださった。我々はその姿勢をうれしく思います。ここに来るほとんどの人が自分は運が悪かっただけだと感じています。果たして、運が悪い人だけが取り締まりを受け、このような講習に参加することになるのでしょうか・・・。いえ、違います。皆さん方にはこう思ってほしいのです。ありがたい “兆” をいただいたのだと・・・。」

『き、兆・・・』
オレはハッとして息を呑んだ。教官は続ける。

「もしかしたら、運転中に慢心から事故を起こす運命にあった人が、ちょっとした違反で警告を受け、嫌々ながら講習に参加する破目(はめ)に陥ったとします。それでも、少しでも心を改め、安全運転に関心を持つことができたとしましょう。結果、その人が自己を起こす運命から逃れられたとしたら、それは、正に、検挙されたことが “兆” だったと言えませんか?事故と講習とどちらがいいでしょう?間違いなく講習ですね。何度も言うようですが、ほとんどの事故には相手がいます。その相手が、大けがをする、亡くなるということがどんなに重大なことなのか真剣に考えてほしいのです。」

『確かにそうだ。ふとした事故で相手が死んでしまったら・・・』
マイクロバスの中で見た映像が頭をよぎった。教官は更に続ける。

「いいですか、どんなに小さな注意でも、それを兆として捉えてください。自分を戒めるきっかけにしてほしいのです。警官の顔が苦々しく思えるときもあるでしょう。それでも、グッと堪(こら)えて、心の中で “キザシ” “キザシ” と唱えてみてください。事故は決して起こしてはならないのです!」

  オレたちは言葉を失い沈黙が横たわった。教官の言葉は心に沁みた。本当にそうだ。オレたちは、事故は自分には起こらないものと高を括ってはいなかったか?確かに甘く見ていたな、素直にそう思えた。オレは用紙に向かい、この講習での経験から得たこと、ボランティアの素晴らしさ等を書き連ねた。そして、教官の仕事の素晴らしさを称え、表面だけでは足りずに裏面をも使って講習の意義と感謝の言葉を書きに書いた。

『先生方の仕事はなんと尊いのでしょう。私たちは、いや、不肖ホソダフトシ、感銘を受けました。このご恩は一生忘れません。事故がどれほど悲惨なのかを家族や友に伝えようと思いました。心からそう思えます。どうぞ、明日からもオレのような不届き者を更正させてやってください。』
教官の言葉から受けた感動とオレの文章には多少のギャップがあるが、あまりの興奮がオレの文学的素養を麻痺させたのだろう。勘弁してほしい。

  感想文を提出すると違反者講習は終了だ。『終わった・・・』 オレは、その時初めて疲労感を覚えた。第3教場の仲間たちとの別れは名残惜しくさえあったが、ここで会い、ここで別れるべき人たちだった。「また、会おう!」 とは言えない。「では・・・」 とか 「それでは」 とか、お互いにそれぞれの言葉で別れを伝え合った。「あばよ!」 「押忍!失礼します」 「さらばじゃ!」 「おひらき〜」 「かたじけない!」 「うい〜す!」 「そ〜ろ〜んぐ!」 そして、皆は、自分のいるべき場所へと帰って行った。建物を出ると、オレたちの長い一日が西の空に傾きかけていた。


  2週間ほど経ったある日、オレは、会社の車で赤坂に出かけた帰り、車中で小用をもよおした。訪ねた会社で出されたアイスコーヒーが美味くて飲みすぎたせいだ。帰り際にトイレを借りたにも関わらず、膀胱は破裂しそうになっていた。『やばいぞ・・・』 どこかにトイレはないかと思った矢先、オレは、200mほど前方にコンビニがあるのを認めた。『仕方がない、ちょっとあそこに寄っていくか』 都内の主要道路で駐車禁止でない道はない。だが、道は広く、コンビニの前には、既に数台の車が停まっていた。オレは、列の切れ目がコンビニの真ん前であるのをいいことに車を停め、店内に急いだ。短い停車でもさすがに、エンジンをかけっぱなしでは無用心だ。鍵はしっかりと閉めた。そして、店の人には悪いが何も買わずにほんの2、3分で店を出た。

『よし、行くか!』 店を出た瞬間だった。フロントガラスに何かが貼られているのが目に飛び込んできた。『チラシか?』 と思ったオレが甘かった。『な、なに!』 放置車両確認標章だった。薄黄色の紙には駐車違反という文字と駐車違反のマークがあった。周りを見回したが、警官らしき人はいない。違反状況欄には 「○月○日15時41分」 とあり、確認開始時刻 「15時38分」 とあった。

『くそ〜〜〜〜!なんじゃこれはぁ!たった3分じゃねえか。3分でも許してもらえねえのか〜〜』 はらわたが煮えくり返るとはこのことだ。オレは、すぐに携帯電話を手に取り、確認標章にある赤坂警察署に電話をかけた。

「腹が痛くて2、3分しょんべんしてたら紙を貼られました!」
「ほんの2、3分です。」
興奮してまくし立てたが、どんなに弁解しても後の祭りだ。簡単に諦めてたまるかと思ったその瞬間、オレは数週間前に誓ったことを思い出した。

「キザシ・・・」
「キザシ・・・」
と噛みしめながら、

「キザシ・・・」
「キザシ・・・」
と、作り笑いのオレの目から

液体のようなものが零れ落ちそうになった。 (完)

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