映画を脚本、監督、の順で考えてみたい。まずは脚本。「何を言いたいか」「何を伝えたいか」、映画において一番大切な部分だ。この骨格とも言えるべきテーマがしっかりしていないと映画を作る意味がない。どんな名監督や名優を使おうと、それは地盤の緩いところに高層ビルを建てようとするようなもので、安全を優先するのなら2階建てぐらいが妥当ということになる。・・・いや、真の名監督や名優ならばそんな建築には参加しない。逆に脚本がしっかりしていればその時点で10階建てにしようか、12階建てにしようかと高い次元からスタートすることができる。題材はあらゆるところにある。小説や詩から、週刊誌や新聞の記事から、テレビのニュースやドキュメントから、音楽やその歌詞から、絵画や彫刻から、歴史や文化、伝説から、友達の何気ない一言から、近所のおばさんのおしゃべりから、道行く人や佇む人の顔つきから、犬や猫の鳴き声から、スポーツから、ファッションから、テクノロジーから、季節の営みの中からでも着想を得ることができる。想像力が必要な時もあるがそれこそ腕の見せどころだ。だからか名監督と呼ばれる人たちは自ら脚本も手掛ける場合が多い。

  普段の生活の中でのアンテナの張り方が重要になってくる。何かを作り出そうとする人は(職人も含めて)より太く、長く、どんなに細かいことでも見逃さないようなアンテナを張り巡らせている。その感覚は無意識のうちに研ぎ澄まされていく。好奇心も旺盛でなければならない。おもしろいもので人は“今”の自分に必要のないことにはまったく興味を示さない。というか脳が認知しようとしない。たとえば毎日のように通っている道がある。歯が痛くなって初めて歯医者の看板が目に入るようになる。「あっ、歯医者だ。」「あれ、ここにもある…」また、証明写真が必要になって初めて近所の写真屋さんに気付いたりする。何年も近くで生活しているにも係わらず、である。以上は僕の経験談。『見ているようで見えていない』『見ようとしないと見えない』・・・気付いたときには唖然とした。
  言いたいこと、伝えたいことを無視した映画もある。エンターテイメントに徹したヒーローものや痛快コメディー、怖いだけのホラーやお色気、お馬鹿映画がそうだ。(オースチン・パワーズ・シリーズなんて最高だよね!)これらも時には必要だからおもしろい。また、故意に難解にしたり、意味不明にしたりして観る側に考えさせる、というような映画もある。

  監督と呼ばれる人(職)は少ない。映画監督の他にはスポーツチームの監督か建設現場の監督ぐらいしか思い浮かばないがどれも重要な役目だ。総責任者という意味合いが強い。映画は総合芸術と言われるほどたくさんの分担された役割(カメラ、照明、記録、録音、音楽等)があり、監督はその道のプロを束ねる。武将あるいは軍隊の長のようなものだ。映画の場合、タイトルだけではなく監督名と撮られた年が同時に記されることが多い。どんな人がどんな考えを基にいつ撮ったのかということが重要視されるからだ。映像とは写真(静止画)の連続だ。“場面”の連続が映像となる。監督は頭の中にイメージした“絵”を映像化していく。そしてその場面を繋ぎ合わせて作品として仕上げて行く。たとえば2時間の映画を撮るのにどのくらいのフィルムが必要なのだろうか。想像を絶する時間が費やされているだろうことは想像に難くない。周到な準備をしなければならない。イメージに合う場所を探したり時節を考えたり。更に設定や美術にはたくさんのお金がかかる。このように実際に撮影に至るまで、そして撮影自体には気の遠くなるほどの労力と時間が必要とされるのだ。そして最後の編集ではその大事な大事な場面を切り取らなくてはならないこともある。この“カット”にこそ監督の力量の差が出る。センスと言ってもいい。素晴らしい監督は捨てる強い勇気を持っている。時にはその場面一切をカットしなければならないこともあるだろう。本当の“捨てる勇気”が必要なのだ。たとえばある美しい場面があるとする。その場面が終わって次のシーンに行くとしよう。この絵を撮るのに何日もかけた。何千万円もかけた。景色も色も構図も非の打ち所がないほど美しい。普通の監督なら自分の撮ったその場面を少しでも多く観て欲しいと思うものだ。結果ギリギリまで切らない。観客もたっぷりと見たいと思う所だし満足する。しかし名監督は「えっ!」というところで切ってしまう。もう少し観たいのにと思わせるところでバサッと切ってしまう。長いも短いも0.何秒の世界だろう。でもこの0.何秒こそが並の作品と名作の境なのではないだろうか。黒澤明監督の真骨頂はここにあると思う。ズバズバっと惜しみなく切りまくる。潔さ以外の何ものでもない。黒澤明は手塚治虫と共に僕が尊敬する日本人の芸術家だ。彼の作品は30作、晩年の『夢』や『八月の狂詩曲』あたりになるとさすがに伝家の宝刀も切れ味が鈍くなってしまうがほとんどの作品は素晴らしい。好きな作品を五つ挙げるとしたら『デルス・ウザーラ』『七人の侍』『羅生門』『生きる』『どん底』だ。一番好きな『デルス・ウザーラ』はロシアで撮られた作品で監督以外のほとんどのスタッフ、キャスト全員がロシア人だ。人間の真の美しさを描いている。主人公のデルスが愛おしい。『羅生門』も『生きる』も『どん底』も人間の本当の姿、生き方、そして命そのものを鋭くえぐっている。そして『七人の侍』こそが十五の葉の最後で書き渋った、僕が繰り返して観ている三つの映画のひとつだ。ドラマチックであり痛快であり微笑ましくもあり、最後には勇気と希望が心に満ちる、そんな映画だ。世界に誇る1本でもある。

  今回も張り切りすぎたのか長くなってしまった。映画の話はまだまだ終わらない。また近いうちに。『七人の侍』、書いているうちにまた観たくなった。
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