タローとオレは、急いで居間に駆け込んだ。食卓にはいつものようにたくさんの料理が並べられている。ひとつひとつの料理は、けして豪華ではない。だが、素朴な田舎料理はオレの好物ばかりだ。がっつりと大盛り飯を3杯は食べたい。と思うのだが、あくまでも気持ちだけの話だ。悔しいことに、本当に残念なことに、最近は食べる量がめっきり減ってしまった。豪快にかっ込んでいた頃が懐かしい。オレは、喰うことが大好きだ。今でも、いつでも、たくさん喰いたいと思う。

  喰うことが嫌いな人なんているはずがない。そんなヤツには会ったことがな・・・いや、ある。ひとりいた。喰うことが面倒くさくてしょうがないと言う男に会ったことがある。ヤツは 『何かを食べたいなんて思ったことがない。腹が減ったこともないし、しょうがないから食べているだけだ』 と言っていた。そんな人もいるのかと、にわかには信じられなかったが、この世は広い。このような人間がいたとしても不思議ではない。

  部屋に入った瞬間から、ご馳走に目を奪われて周りを気にする余裕はなかったのだが、何かおかしい。何かが足りない。いや、何かではない。誰かが足りないのだ。親父だ!オレは、箸を取って大根の味噌汁に口をつけながら聞いた。

「親父は?」

「上で寝てる。気持ち悪いんだって」
ヤスシが金平(きんぴら)を口に運びながら答えた。

「めずらしいな、どうしたんだろう」
オレは、大好物の昆布(出汁と醤油で煮たもの)を頬張りながらつぶやいた。

「それがね、お父さん、カブト虫の餌を食べちゃったみたいなのよ」
お袋が人事のように言う。

「・・・何?カブト虫のえさ?」
オレは、一瞬噛むのをためらった。一体、何のことだ?カブト虫の餌を食べたって?すぐには、その言葉の意味さえ理解できなかった。オレは瞬時に頭をフル回転させてみたが、50年の歴史を通してみても、そんな事例を見たことも聞いたこともない。もしや、親父は呆(ぼ)けて・・・いや、そんなことがあるはずがない。さっきまで、シャキッと日課のラジオ体操をしていたではないか。オレは、冷静に考えた。カブト虫の餌といえばスイカの食べ残しと決まっている。親父はスイカを食い過ぎて腹をこわしたのか。まさか、皮まで喰ってしまったのではなかろうか。それとも、クヌギやコナラの樹液をすすったなんてことは・・・あろうはずがない。親父は一体何を口にしたのだ。

「あははははは・・・」
タローはさっきからオレの隣で大笑いだ。

「カブト虫の餌って何なんだ?」
オレは訝(いぶか)し気(げ)に聞いた。

「タローのだよ」
ヤスシが横からスッと答える。どういう意味だ?

「ねえ、パパ、おじじはあのカブトの餌を食べちゃったの?あははははははははは・・・」
タローは笑いが止まらない。

「あれだよ」
突然ヤスシが、テレビの横を指差した。そこには、大きく 『フルーツの森』 と書かれたゼリーとおぼしき袋があった。その文字の下には、ぶどう、りんご、みかん、いちご、バナナが美味そうに描かれている。『お徳用50個入り』 『はちみつプラス』 なんて文字も見える。袋の中には、一口大のカップに入った色とりどりのゼリーが入っている。

「あのゼリーか?」
オレは何の不思議があるんだとばかりに近づいて袋を手に取った。どう見ても、普通のゼリーにしか見えない。だが、確かに果物の脇にカブト虫とクワガタの絵が描かれている。

「これかっ!」
オレは目を凝らした。よく見ると小さな文字で 『カブト虫、クワガタ虫飼育用』 『昆虫用ゼリー、栄養たっぷりで元気に飼育!』 と書いてある。カブト虫用のゼリーまで売っているのか。まったくもって驚いたが、21世紀だ。あってもおかしくはない。更に、その下にはこうある。『嗜好性の高いフルーツに動物性たんぱく質、グルコース、ビタミン、アミノ酸、はちみつ等をバランスよく配合したゼリーなので長く飼育できます』 この小さな文字が、年寄りの目で読めたかどうか・・・。何とも紛らわしい。昆虫用のゼリーなど知らない人ならば、誰が喰ってもおかしくはない。

  事実、親父はカブト虫飼育用のゼリーを喰ってしまった。親父がこの飼育用ゼリーを口にするまでの経緯を知りたいと思うのは当然だ。そんな空気に気付いたのか、お袋は静かに語り始めた。大筋はこうだ。お袋の言葉をざっと並べて見る。話は、2時間ほど前に遡る。タローとオレが相撲を始めた頃だ。ヤスシは嫁のミトさんとタローの姉ハナを連れて買い物に出ていた。居間に残ったのは、親父とお袋だけだった。

◆親父は小腹が空いたらしく何かないかとお袋に尋ねた。
◆お袋は、ヤスシが持って来てくれたゼリーがあるけど、と言い台所に向かった。親父は甘い物が大好きだ。
◆その後、30分ほどして親父がふらふらと出てきて、気持ち悪いと言いながらトイレに駆け込んだ。
◆そして、そのまま二階にあがって寝込んでしまった。
◆お袋が居間に入ってみると、ゼリーの容器がふたつ転がっていた。

  とまあこんな具合だ。オレは、厚揚げを甘じょっぱく煮たものを口に入れながら 『フルーツの森』 の袋に書かれいる原材料名に目を通した。動植物性たんぱく質、グルコース、ビタミン、アミノ酸、ミネラル、果糖液糖、はちみつ、ゲル化剤、香料、酸味料、着色料・・・。体に良くないものもあるが、おおよそ、人間が摂っているものと変わりない。袋の中からは甘い香りが漂い、ゼリーの色もピンク、黄色、緑と鮮やかで見た目にも美味そうだ。ただ、カブトやクワガタの味覚に合わせて作ってあるのだから、人が食べても美味いとは感じられないはずだ。カブトムシの餌だと分かった上では、さすがのオレも味見をする勇気はなかった。オレは、鶏と野菜の煮物を取り皿に残したまま二階へと上がって行った。後ろには、タローが卵焼きを頬張りながら付いて来ていた。

「だいじょうぶかよ」
親父は、うんうんとうなっていた。苦しそうだが、熱はないようだ。

「まずかっただろうに、何でふたつも食べたんだ?」
親父は、とつとつと語り始めた。

◆親父は小腹が空いたらしく何かないかとお袋に尋ねた。
◆お袋は、ヤスシが持って来ていくれたゼリーがあるけど食べてみたら、と言い親父にフルーツの森を差し出した。親父は甘いものが大好きだ。だが、大抵はどんなものでもお袋から手をつけるのに不思議に思った。
◆お袋が 『お父さん、ゼリー好きでしょ』 と言いながらやけに勧めるので、ひとつ口にすることにした。黄緑のゼリーだった。親父は、本当はゼリーはそれほど喰いたくはなかった。
◆口にしてみると、今まで感じたことのない嫌な味がした。まずいと思ったが、こんな味もあるのだろうと無理やりお茶とともに飲み込んだ。
◆お袋が 『お父さん、おいしい?おいしいの?』 と聞くもんだから、親父は 『そうでもない』 と答えた。
◆『お父さん、もうひとつどう?新作かもしれないわよ。新しい味がするの?』
お袋はどうしてももうひとつ親父に食べさせたかったらしい。親父は、しぶしぶともうひとつの、今度はピンクのゼリーを手に取り、美味くあってほしいと祈りながら口に入れた。
◆『げげげ、ま、まずい』 世にも不思議な味がしたが、男たるものそんな顔はできない。またもや、お茶とともに飲み下した。そんな親父の様子を見ていたお袋は、『私は食事の用意があるから』 と、すこすこと台所に行ってしまった。
◆その後、30分ほどすると気持ちが悪くなってきた。ふらふらと居間を出ると、お袋が 『お父さん、どうしたの?変なものでも食べたのかしら』 と不思議なことを言った。ひとこと言ってやろうと思ったが、余計に気持ち悪くなりトイレに駆け込んだ。
◆そして、そのまま二階にあがって寝込んでしまった。
◆居間には、ゼリーの容器をふたつ残してきたままだ。


  なんてこった。これじゃ、まるで黒澤明の 『羅生門』 じゃねえか。オレは息子として、お袋も親父も信じなければならない立場だ。苦笑するしかない。ここで、どちらがどう等と考えるようでは生きてはいけない。深く考えるのは止めにして居間へと戻った。

  オレが親父と話をしている間、タローはオレの脇にちゃっかり座り無言を通していた。

「タロー、勉強になっただろう」

オレの一言にタローは大きく頷いた。  (完)

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