今、WORDを開いて、まっさらなページに 『百六十九の葉』 と打ったつもりが、ふと見ると 『百六十九の歯』 になっていた。歯歯歯歯歯。この偶然で少し力が抜けた。今までこんなことはなかった。百六十八編までは、数字を漢数字に変換して 『の』 とくれば、次の 『は』 は常に 『葉』 だった。どうしてだろうと考えてみたが謎は解けない。ん?これは謎なのか?謎ほどではあるまい。単なる偶然だ。だが、このような偶然が歴史を変えることがある。葉葉葉葉葉。歴史とは大げさなと思われるかもしれない。だが、学校で学ぶ歴史だけが歴史ではない。人や物の数だけ歴史がある。このエッセイしかり。もし、『は』 が 『歯』 に変換されなかったら、いや、変換されたとしても、すぐに気付いて 『葉』 と直していたら、百六十九編目のエッセイがこのような書き出しになることはなかった。

  今月は忙しかった。特に20日を過ぎてからは、一日一日が戦いだった。やるべきことをひとつひとつクリアして、納得の今日を迎えた訳だが、11月29日の夕方になってもエッセイのテーマが決まらずにいた。発表は10日毎のことだから、次は何を書こうかといつも何となくは考えている。しかし、この10日間は、その余裕すらなかった。書くことがなかった訳ではない。ニュースを見ても新聞を読んでも気になることはたくさんある。憂えること、嘆きたいこと、叫びたいことを挙げれば限(きり)がない。苦々(にがにが)しいことばかりだ。それでも、そんな中にでも讃えたい出来事が必ずある。救いだとしか言いようがない。

  興味あることが、即エッセイのテーマになるのかと言えばそうでもない。直結しないところがおもしろいと思うのだが、書きたいこととの出会いにはその時々の “縁” みたいなものがあって、自然にテーマとなって降りてくることが多い。ところが、今編のように締め切りぎりぎりになっても、頭の中がまっさらなままだと、広場にひとり取り残された子供のように心細い。

  とりあえず、パソコンに向かおうと電源を入れ、机に向かったのは数時間前のことだ。『さて、どうする・・・』 このような状況は、今までにも何度かあった。どうにか切り抜けては来たものの、今日もうまくいくという保証はない。そんなときに 『は』 だ。羽羽羽羽羽。これで、何とか救われた。機械も味なことをする。おかげで、今編は力を抜いて書くという方向に決まった。そのままのん気に書いていると、友だちのギタリストから電話があった。

「元気〜〜? 疲れてるんだって?」
忙しかったのを知っているようだ。

「うん、ちょっとね。昨日は電話に出られなくてごめん」
彼からは、昨日も着信があったのだが、かけ返す気力がなかった。

「いいよ、いいよ。何やってたの?」
声から、気遣ってくれているのが分かる。

「エッセイ書いてんだ」
まさに、書き始めたばかり。

「疲れてるときは休めばいいのに」
いとも簡単に言う。

「そうはいかないよ、自分で決めたことだから」
5年間続けて来た自負があるし、楽しみでもあるから止められない。

「今頃はね、夏の疲れが出るらしいよ」
本人はいたって元気そうだ。

「そうだろうな」
これからは少し休めるだろう。

「あと、どのくらい?」
これも気遣いか。

「2枚書いたから、あと3枚ぐらいかな。5枚って決めてるんだ」
最低でも、2000文字は書こうと決めている。

「いいじゃん、たまには2枚でも」
またしても簡単に言う。」

「だめだよ〜」
2枚でまとめるのは逆にむずかしい。

「内容を濃くしたので、今回は4枚です。って言えばいいんじゃない?」
派派派派派。うまいことを言う。確かに、枚数に囚われているようではいいエッセイは書けない。

「とにかく、がんばるよ。来月は少し落ち着くから飯でも食おうか」
数ヶ月前から出ている話だ。

「了解!じゃあ、がんばってね。風邪ひかないように」
最後まで気遣ってくれる。


  電話を切って、お茶を入れてから再びパソコンに向かった。『は』 が 『葉』 だったら、何を書いていたのか想像もつかないが、友だちとの会話を文章にするなんてこともなかったはずだ。『偶然は必然』 という言葉は、あまり好きではなかったが、ここまで書いてみると 『そういうこともあるのかな』 と納得せざるを得ない。そういえば、10日前の百六十八の 『葉』 で触れた黒澤明の名作 “羅生門” も始まりは同じだ。

  山中でのことだ。木陰で暑さを凌いでいた多襄丸(たじょうまる)が、ふと、目を開けた。誰かがやってくる。近くの道を役人風の男と彼の妻と思(おぼ)しき婦人が通りかかった。馬上の婦人は、布で顔を覆っているから顔は分からない。多襄丸は、もう少し寝るかとでも言わんばかりに寝返りを打ち、ふたりを見過ごすはずだった。だが、幸か不幸か、その瞬間、一陣の風が舞った。風が女の顔を隠していた布を剥いだ。偶然にも、多襄丸は、女の顔を見てしまったのだ。そして、目を瞠(みは)る。『なんて美しいんだ』 彼は、女を自分のものにしたくなった・・・。続きは映画を見てもらうとして、風が吹かなかったら何も起こらなかったはずなのに、多襄丸がふと顔を上げた瞬間に風が吹き、女の顔をさらした。これは、偶然なのか、あるいは必然だったのか。映画のその後の展開は、素晴らしいとしか表現できない。世界中の映画監督に影響を与えた作品だ。ぜひ、観てほしい。

「“風” さえ吹かなかったら・・・」
「“は” さえ間違えなかったら・・・」

  刃刃刃刃刃。やっぱり、同列には並べられない。黒沢監督、大変失礼致しました。 (了)


※ 羅生門は1951年のヴェネツィア国際映画祭グランプリを受賞し、黒澤明や日本映画が世界に紹介されるきっかけとなった。

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