僕の19歳は1980年の4月に訪れた。3月に高校を卒業、親元を離れ初めてひとり暮らしをするようになった年だ。最初の数ヶ月は東京都西多摩郡箱根ヶ崎の親戚の家にお世話になった。その家のおじさんは一人で暮らしていた上、船乗りだったから家にはほとんどいない。いきなり2階建ての家にひとりで住むことになってしまった。それまでは家族5人でワイワイやっていたのにいきなり孤独の世界に足を踏み入れたのだからギャップが大きい。何をするにも寂しかった。ひとりで、しかも初めての場所で生活するというのは生まれて初めてのことだったのだから無理はない。自炊も始めた。といってもご飯だけ炊いておかずは買ってきて食べるのだが、この食事が特にやっかいだった。ひとりでの食事、今は時には歓迎するがその頃はかなり心もとなく思われた。寂しさを紛らわすためにテレビはいつでも点けっ放しにしておいた。大音量で。あとは実家や高校時代の友達に電話するしかないがそれも限られる。寝るまでの時間が本当に長く感じられた。しかし、人間は慣れる。いや環境が新しい心境を生む土壌を与えてくれるのか。不思議なものでしばらくすると寂しさなんてものは感じなくなっていた。まさに“慣れた”としか言いようがない。知らないうちに孤独を愛するようになっていた。静けさが好きになっていた。人はひとりでいると考えるようになる。考えることのおもしろさを知った。

  箱根ヶ崎も学校のある吉祥寺も同じ多摩地区だからたいした距離ではないだろうと高をくくっていたのだがいやはや参った。遠かった・・・。箱根ヶ崎はいわゆる東京のイメージではない。東京の西側がこれほど広いとは予想もしていなかった。地図を見ると一目瞭然だが東京は23区のある東側よりも西側の方がずっと広い。あこがれの東京生活の拠点は光町から東京を横断して西の果てとまでは言わないがそれに近い西多摩郡になってしまった。西多摩郡にはまったく悪気はないが当時は光町とあまり変わらなかった。

  学校に行くにはまず駅まで歩く。19歳の足でも20分はかかった。近くに店らしい店はない。しばらく行くとどうにかスーパーマーケットはあった。畑が・・・ある。やけに緑が・・・多い。当然違和感は・・・ない。八高線(八王子、高崎間を結ぶ)に乗ってまずは拝島を目指した。八高線を走る2両編成の列車はディーゼルエンジンで動く。電車ではない。今でも変わらずに颯爽と走り続けているのだろうか。驚いたことにドアは手動だ。行列の先頭の人がガガーッと手で開ける。新しい車両に変わっている可能性があるがあの姿のままでいてほしいものだ。千葉の田舎育ちの僕も初めて見た。「こんなはずでは・・・」と、ちょっと拍子抜けしたがまあいい。こんな経験そうはできないぞ、と前向きに考えた。1駅目は東福生、2駅目の拝島で青梅線に乗り換えて立川まで。更に中央線に乗り換えてやっと吉祥寺に着く。特急で約25分かかった。吉祥寺駅から学校までは歩くと20分はあるから、家を出て学校に着くまで1時間半はゆうにかかった。帰りはというと、10時半の電車に乗らないと八高線の最終電車に間に合わない。最初からバンドをやることしか考えていなかったし、大学生活をエンジョイしようなんて思ってはいなかったがこれではあんまりだ・・・。調子が狂ってしまう。前もって地図を見るなりして確認すべきだった。楽天的性格が災いしたとちょっと後悔したがここでもやっぱり「どうにかなるさ」と前向きだった。いきなり肩透かしをくってしまったが、こうして僕の東京生活の幕が開いた。

  ある休日の午後だった。帰りの八高線で真っ黒に日焼けした女の人が僕の隣に座った。まぶたは真っ青に塗られている。髪はストレートで茶色だった。当時は髪を染めるなんて珍しかったから特別に見えた。かなり年上に見えたが話してみるとひとつ年上だった。「この人なんでこんなに焼けてるのかなあ。」と思っていたら(まじまじと見ていたのだろう)向こうから「楽器やってるの?」と声をかけられた。僕はベースを持っていた。当たり障りなく答えた後、逆に「何でそんなに焼けてるんですか?」と聞いてみた。その人はびっくりしたような顔をしてサーフィンをやっていると言った。恐ろしいことにそれまで僕はサーファーなる人種がいることを知らなかった。当時はまだサーフィンが流行り始めた頃で今とは状況がまったく違う。更に後で知ったことだが千葉県でも御宿辺りでは盛んだったらしい。僕の住んでいた町の海岸は波が荒すぎたのかサーフィンはできなかったそうだ。数日後、立川の駅でやはり真っ黒に日焼けしたガッチリした男の人とガシッと腰を抱え合って歩いている彼女を見た。それはかっこよかったし、お似合いだった。僕はちょっと目を伏せた。

  こうして波乱の19歳が始まり本格的にバンド活動を始めることになるのだが1980年の春は衝撃的な東京デビューの序幕とし今でも強く心に残っている。
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