秋真っ盛り。何とも気持ちのいい日が続いている。心地良い空気が体を包み、自由度を増した風が木々の間を縫うようにして通り過ぎる。今ほど快適な季節はない。こんな恵みを享受できるのは、地球の住人でもごくわずかだ。その幸せを噛みしめなければもったいない。それに、このところ、年々、秋が短くなってきたように感じられる。これから先、夏からいきなり冬、なんてことにもなりかねない。そんな貴重な日々を大切に過ごしたい。

  素晴らしき秋の一日、2011年10月9日(日)、ぼくは、実家の居間でパソコンを開いた。自室以外でエッセイを書くのは初めてのことだ。日曜日の昼下がり、弟家族は、一緒に昼ごはんを食べると成田へとでかけていった。おやじも同窓会に恩師として招かれて留守にしており、残るは、ぼくとおふくろのふたりだけだった。パソコンに向かうぼくの隣で、おふくろは、静かに趣味のパッチワークを始めた。

  話は、この日かから数日前に遡る。今度の土曜に帰るよ、とおふくろに電話をかけたら、そこに偶然弟が居合わせた。ぼくが帰る8日(土)に姪っ子の誕生会があると言う。『来る?』 って、行くに決まっている。『行きたい!』 即答だ。それから、と弟は続けた。甥っ子が野球チームに入ることになり、8日に初めて練習に参加するという。『やった!』 ぼくは、一緒に見に行くと告げ電話を切った。

  中学生まで野球浸けだったぼくは、甥っ子にも野球をやってもらいたかった。野球に興味を持ってくれるといいなと、遊びの範囲でキャッチボールをしたり、バッティングセンターに連れて行ったりしていた。もちろん、マリーンズの試合には毎年一緒に出かけている。彼も今では立派なマリーンズファンだ。

  ぼくたちが子供の頃は、男の子のスポーツといえば野球だった。誰もが、グローブ片手に出かけたものだ。しかし、今の男の子たちはというと、野球よりもサッカーに興味があるようだ。ご多分に洩れず、甥っ子も常にサッカーボール持参で遊びに行く。何を選ぶかは本人次第だが、ぼくも弟も何かひとつスポーツを、できることなら野球をやってほしいと願っていた。そんな中での朗報だ。時期が来たということだろうか。これもひとつの実りと言っていい。甥っ子が野球の練習に参加するきっかけとなったのは、やはり友だちだった。野球をやっている友だちからのラブコールを受けたのだ。友の力は歳を問わない。

  4年生の甥っ子は、東陽スポーツ少年団に入団することとなった。スポーツ少年団と聞くと何種目かのスポーツをやるようなイメージがあるが、発足当時から現在まで純然たる野球チームだ。東陽小学校のOBや町の世話役が中心となって、チームを守り立てている。かく言うぼくもスポーツ少年団のOBだ。甥っ子と同じ4年生で入団し、3年間在籍してチームメイトたちと野球に明け暮れた。甥っ子は、このチームでも後輩となった。

  10月7日(金)の夜は、東京の自室で作業をしていた。時間は、あっという間に過ぎ、気付くと8日(土)の朝になっていた。ぼくは、1時間ほど仮眠を取り、車を発進させた。練習は朝8時からだ。土曜と日曜の午前中みっちりやる。実家で弟と合流し、練習場である東陽小学校のグラウンドへと向かった。甥っ子は、ひとりジャージ姿で、揃いのユニホームを着た選手たちの前に立っていた。監督から新メンバーとして紹介されると 『よろしくお願いします!』 と堂々の宣言だ。

  選手の数は多くはない。ざっと数えると20人に満たない。指導者は、監督の他に野球経験者であるらしいコーチが数人、そして、父兄らしき人たちも指導を手伝っていた。弟が、監督に挨拶に行くと、監督がぼくたち兄弟の幼なじみのご主人であることが分かった。コーチの中には光中野球部の先輩も後輩もいた。先輩には丁重にあいさつし、後輩からは丁寧なあいさつを受けた。男の子に混じって女の子もいる。最早、“少年団” とは言えない。名前を変える時期でもあるようだ。

  この辺りまで書いたときに、おふくろがちらちらこちらを伺っているのに気付いた。何か話をしたいらしい。視線があった瞬間待ってましたとばかりに話かけてきた。

  『話してもいい?』 なんとも殊勝な言い方だ。集中していたぼくに気遣って話してもいいかと尋ねてくれたのだ。できた言い方だなと感心したぼくは、いいよと何気なく答えてしまった。途端に、おふくろの口からは言葉があふれ出した。へえ〜っと思う話もあったが、以前聞いたことのある話が半分だった。途中、何度か 『もう少し書いちゃうよ』 とか 『お母さん、ごめん、まだ半分だから』 とか、どうにかして話の腰を折ろうとするのだが、沈黙は2分ほどしか続かない。おふくろは、ぼくがお茶に手を伸ばしたり背伸びをしたりする瞬間を見計らっては声をかけてくる。その度に頓挫することになるのだが、何だかおかしくなってきて休憩することにした。

  ぼくは受験生だった頃を思い出した。ぼくの勉強時間は、深夜、それも皆が寝静まった後と決まっていた。理由はご想像にお任せしたい(笑)。そのうちに、おやじが見事な胡蝶蘭を手土産に帰ってきた。教え子の皆さんにいただいたそうだが、それこそ、へえっと驚いてしまった。なんとなくお腹も減ってきた。食事にしよう。おふくろが、蕎麦を茹でてくれた。厚揚げの煮物と砂糖と味噌で甘辛く炒めた茄子のしぎ焼きは、ぼくの好物だ。庭で栽培している紫蘇の実の漬物が絶品だったことも付け加えなければならない。

  さて、8日の話に戻ろう。東陽小学校のグラウンド。まずは、キャッチボールからだった。どんなことにでも基本がある。プロ野球選手の練習も、まずはキャッチボールからだ。ベーシストの運指と同じようなもので極意はこの中にあると言っていい。初参加の甥っ子には、すべてが初体験だったが、戸惑うこともなく淡々とこなしているように見えた。監督は、彼に対しバットの振り方やボールの投げ方等を手取り足取り根気よく指導してくれた。ときおり笑顔を交えての指導には好感が持てた。ティーバッティングでは、途中からいい音を響かせるようになった。初のシートノックではセカンドについた。当然、お手玉はしたが、いくつかのゴロは難なく捌いた。

  ぼくは、自分自身の初練習を思い出した。ショートの守備位置につき生まれて初めてノックを受けた。3、4球だったが、緊張したのなんの、あの瞬間は決して忘れられない。ノックしてくれた監督の顔、飛んでくるボールの球筋、ファーストまでの距離が遠く感じたこと等が、はっきりと思い出された。12時を過ぎ、みっちり4時間の練習が終わった。それにしても、指導者の皆さんには本当に頭がさがる。用事がある日もあるだろう。休みたい日もあるだろう。それでも、子供たちのために時間を割いてくれる皆さんに、心からの感謝を捧げたい。

  ぼくは、選手たちが引き上げたグラウンドに一人歩を進めた。バッターボックスに立ちマウンドを見やった。そのままマウンドに向かい、今度はマウンドからバッターボックスを見すえた。そして、最後にショートのポジションに立った。そこからファースト方向を見ると、ライト後方にそびえる巨大なインドポプラが目に入った。電信柱の3倍はある。30メートルは優に越えるだろう。この樹は、ぼくたちが夢中でボールを追いかけていた40年前からグラウンドを見下ろしていた。当時は、10メートルほどだったろうか。大きさはともかく、その存在感は、40年前からまったく変わっていない。

  グラウンドを後にしたぼくたち3人は、食事をするとすぐにスポーツ用品店へと向かった。甥っ子のユニホームを買うためだ。アンダーシャツからスパイクまで一式揃えると、姪っ子のためにケーキを買って家路へとついた。弟宅での誕生パーティも楽しかった。パーティが終わり、おやじとおふくろを車に乗せ実家に戻ると20時半だった。ぼくは、眠くて眠くてしょうがなかった。充実した一日を振り返ることもなく、そのまま布団に横たわるとあっという間に寝てしまった。次の日(9日)、甥っ子に起こされて目が覚めた。朝9時だった。

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