2011年10月30日午前6時、ぼくは、自室でパソコンの電源を入れた。窓からは、うっすらと朝日が差し込んでいる。この家に住むようになって10数年、ぼくの部屋は太陽光とは縁遠かった。窓の外には申し訳程度の庭があり、その先のブロック塀の向こうには、塀すれすれに3階建ての家が建っている。その家の両隣にも同じような建物が並んでいるから、陽光は、ぼくの部屋にたどり着けないでいた。ところが、最近、そのうちの一軒が取り壊され新地(さらち)となった。途端に陽光が入り込むようになり、窓を開けると空が見えるようになった。窓から見る空は一味違う。窓枠が額縁となり、刻々と変化する空間を映し出す。切り取られた空は、角度によっても違った表情を見せてくれる。こんな些細なことからも太陽の “恵み” を感じることができる。近所に住む自治会長の話によると、すぐに3階建ての一軒家が建つそうなので、自分の部屋から空が拝めるのも、もうしばらくのことらしい。

  ぼくたちは、たくさんの恵みを受けて生きている。たとえば食事。穀物、野菜、果物、木の実、きのこ、肉、魚、貝、海藻。口にするものはほとんどが自然からの恵みだ。人は、生まれた土地の環境が分け与えてくれる産物で命を繋いできた。日本人は、万物に神が宿ると信じてきた民族だ。仏教の影響もあってか、牛や豚、鶏はもちろんのこと、野菜や米一粒にも命があると考える。「いただきます」 の中には、食事を作ってくれた人へのお礼とともに、食材に対しての感謝の意も込められている。

  11年前、バンドのツアー中に、山口のサービスエリアで何気なく手にしたパンフレットにこんな詩が載っていた。

  朝焼小焼けだ
  大漁だ
  大羽鰯の
  大漁だ

  浜は祭りの
  ようだけど
  海のなかでは
  何万の
  鰯のとむらい
  するだろう

  今では有名な金子みすゞの 『大漁』 だ。この詩を読んだ瞬間、ショックが体を貫いた。『なんだ、こりゃ!』 こんな考え方をする人がいたのか、作者は誰だ。ぼくは、感動に震えながら案内係の女性に作者の名を聞いた。普通、大漁に沸く様子を見ながらこんなことを想像する人はいない。だが、考えてみると頷ける。人間にとっては大漁イコール喜びだが、鰯の側からするとまったく逆の想いが横たわる。鰯の長老が 「今日はたくさんやられたなぁ・・・」 とつぶやき、家族を亡くした数百の鰯が嘆き悲しむ。みずゞには、そんな光景が目に浮かんだのだろう。彼女のこのような感覚は、“感受性が豊か” なんていう常套句では及びもつかない。彼女の言葉には飾りがない。五感を通り越して、心のど真ん中に直接響いてくるような鋭さがある。これは、ぼくが理想としているベーススタイルに近い。装飾音はできるだけ取り去り、核心の音だけで成り立つ表現だ。誰もが弾けるようなシンプルなフレーズで、心地よさを感じてもらえるよう日々精進している。この詩からインスピレーションを得たぼくは、レコーディング中の曲に 『How deep is the sky?』 という詩をつけた。英語詩と訳詞の一部を紹介したい。

  『How deep is the sky?』

  The people that caught the sardines
  rejoiced and celebrated
  But meanwhile
  at the bottom of the sea
  How many funerals were held?

  This wonderful story was written
  by a lady poet in the 1920's
  Now is the right time to think about what she said
  She was the "Golden Child"
  She was the "Beautiful Bell"
  Can you see the midday stars?

  How deep is the sky in your life?
  We are what we feel
  How deep is the sky in your life?
  We are what we want

  “大漁のイワシを前に
  祭りのように喜ぶ人々
  海の底ではどれだけの
  イワシの弔いが・・・”

  これは1920年代に
  女流詩人によって書かれた詩だ
  今こそ彼女の言葉の真の意味を
  考えるときではないだろうか

  彼女は「金の子ども」
  彼女は「美しい鈴」
  君に真昼の星は見えるかい

  君の空はどのくらい深い?
  人は“感じ方”で分かるもの
  君の空はどのくらい深い?
  人は“求めるもの”でわかるもの

  『大漁』 を引用し、彼女はゴールデン・チャイルド(金の子ども)ビューティフル・ベル(美しい鈴)と讃えた。金子みすゞの詩をもう2編紹介したい。


  『積もった雪』

  上の雪
  さむかろな
  つめたい月がさしていて

  下の雪
  重かろな
  何百人ものせていて

  中の雪
  さみしかろな
  空も地面(じべた)もみえないで


  『土』

  こッつん こッつん
  打(ぶ)たれる土は
  よい畠になって
  よい麦生むよ

  朝から晩まで
  踏まれる土は
  よい路になって
  車を通すよ

  打たれぬ土は
  踏まれぬ土は
  要らない土か

  いえいえそれは
  名のない草の
  お宿をするよ

 
  雪や土の気持ちを代弁した詩人がかつていただろうか。中に積もった雪やその辺にある土にまで想いを馳せている。なんというきめ細かさ。みすゞは、この世には必要とされないものなどないんだよ、とやさしく伝えてくれる。

  鰯の弔いの詩を書いたからといって、みすゞが鰯を食べなかったかというとそうではない。彼女は鰯も鯨も食べた。生きるとは食べることでもあるからだ。他の生物を食べないことがいいことなのではなく、いただいた命に感謝することが大事だと教えてくれる。くじら漁をしていた港町には、鯨を供養するために建てられた鯨墓があるし、みすゞの故郷、山口県仙崎では未だに鯨法会が行われている。牛の供養碑が建てられている焼肉屋も数多い。

  いるか漁をしている日本のある港に、環境保護団体のメンバーが滞在し、漁を止めさせようとしているドキュメンタリーを見た。メンバーたちは、漁師たちを卑劣な方法で挑発し、それに対し苛立ち、怒鳴る漁師たちの姿だけを世界に発信していた。『こんなにひどいやつらが鯨やいるかを殺しています』 と。しかもその挑発の仕方が半端ではない。「殺し屋、殺し屋」 と罵り、札束を広げ侮る。声を荒げた場面だけを発信されると知った漁師たちは唇を噛んで耐えていた。生活を支え、命を繋いできた仕事を代々受け継いでいる彼らのどこがいけないのか、ぼくには分からなかった。海の恵みに感謝しながら生きている彼らに罪はあるのか。そもそも、鯨がダメで、牛や豚、鶏なら殺してもいいという考えのゴリ押しはいかがなものか。牛の子どもだってかわいいじゃないか。牛を神さまとして崇めている国もある。はたして、この環境保護団体のメンバーは、自分たちの神さまを殺される人たちの気持ちを考えたことがあるのだろうか。交流には、相手の文化を認めることが何より大切だということを知らないはずがないのに。

  ぼくたち日本人は、恵みによって生かされているということを知っている。植物を含めた他の生き物とは対等という立場だ。それに比べ、これは殺してもいいが、あれはいけないというのは上から目線に思えてならない。書きながら改めて怒りが湧いてきた。心を静めるためにも、最後にもう1篇、金子みすゞの詩に触れてみようと思う。そして、これからも恵みの意味を考えていきたい。


  『露』

  誰にも言わずにおきましょう

  朝のお庭のすみっこで
  花がほろりと泣いたこと

  もしも噂がひろがって
  蜂のお耳へはいったら

  悪いことでもしたように
  蜜をかえしに行くでしょう

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