“幸せ”について考えてみよう。幸せとは何か。“幸せ”は心の満足度を示す言葉だがはたして我々は幸せなのか。日本は幸せな国なのか。幸せという感情ほど個人的で曖昧なものはない。幸せかどうかは心が決めることだから同じ状況でも幸せと感じる人もいれば感じない人もいる。お金がたくさんあれば幸せという人もいるし、お金がなくても自分の好きなことをやれるだけで幸せという人もいる。汗を流して働いてその後のビール一杯が何よりの幸せということもあるし、休みの日の寝坊が幸せという人もいる。家族と過ごす時間が何よりと思う人もいる。宝くじに当たって幸せという人もいる。買うことはほとんどないがもちろん当たったとしたら僕だってうれしい。けれどちょっと待てよと思う。確かに欲しいものは手に入るかもしれないがそれが本当に幸せなことなのだろうか。金持ちになんてなったことがないから分からないが、金持ちになることによって不幸になることも多いということは歴史が証明している。また、美味しいものを食べている時やほろ酔い気分の時、気心の知れた友人との楽しい時間、競馬等ギャンブルで勝った瞬間だって幸せという言葉があてはまるだろう。怪我をして歩けなかった人は歩けただけで幸せだと思うだろうし、大病をした人などは生きているだけでも幸せと感じるはずだ。結局、幸せの感じ方はその人の環境や考え方、人間としての成熟度の相対的な度合いによって大きく左右される。どんな小さなものの中にだって幸せを見つけられる人もいるし、どこにもないと感じる人もいる。とにかく、本人にしかわからないのが幸せという感情なのだ。

  なぜか外国に行くと日本について考えさせられてしまう。外から見ると自分の国のことがよく分かる。日本がよく見えてくる。井の中の蛙とは意味が違うが自分の暮らしている世界しか知らなければ他の世界との比較はできない。最近はテレビやネットで海外の様子が手に取るように分かるようになったが、画面の上にあるもの、下にあるもの、左にあるもの、右にあるもの、そして見ている自分の後ろにあるはずのものまでは伝わらない。本当の色や風の匂いはその地に立ってみなければ分からない。

  先月フランスのマルセイユに行ってきた。地中海に面した南仏の港町だ。BARAKAでプログ・シュッドというフェスティバルに参加したのだ。フェスティバルは4日間行われフランスはもとよりイギリス、ドイツ、イタリア、アメリカのバンドが出演した。会場は郊外にあった。(郊外と言ってもかなりの郊外だ。交通手段も車しかない)空気はからっとしている。最初に泊まったホテルの窓からはセザンヌの世界が広がっていた。乾燥した土と点在する緑、まさしくあの色なのだ。車で30分ほどかけてマルセイユの中心部に行くとそこは港、空も海も青い。青いなんてものじゃない、濃紺というか群青色というか・・・ここではまさにゴッホやゴーギャンの色だ。ゴッホは日本に憧れ続け、疑似日本としてここに居を構えたが残念、あまりにも違った。

  フランスでもラテン系の血を引く人たちが多いところだ。知り合った人たちはみな人懐っこくて親切だった。(余談だが、ソウルでも、シドニーでもメルボルンでも、バンコクやロンドン、NY、トロントでも個人レベルだと人は皆親切だ。人と人との結びつきにはふれあいが不可欠だと分かる。)僕たちが「市内に行く」と言うと、ライブ会場で出会った人たちのほとんどが口を揃えて言った。「スリに気をつけてね。」「荷物に気をつけて!」フランスでは現在失業率が約10%。ちょっと前までは20%近くもあった。この数字を見れば僕の言いたいことは分かるはずだ。数年前までの日本の不況なんて比べられる数字ではない。世界が100人の村だったらという話を知っているだろう。その中に100人のうちひとりは好きな教育が受けられる、とある。日本人はほとんどがその「ひとり」に属する。

  日本に来たばかりの外国人はジーパンの後ろポケットに財布を入れて歩いている日本人が不思議でならないと言う。盗んでくれと言わんばかりだと感じるらしい。日本だとお腹が減っても24時間たいていどうにかなる。コンビニに行けばいい。最近はちょっと物騒になってきたがまだまだ一人歩きでも大丈夫だ。24時間営業の飲食店だってかなりある。本当にすごいことだ。いつどこだったか外国でも24時間営業の店があったが昼の入口とは別の小さな鉄格子の付いた窓で欲しい物を注文した。そして屋外にある自動販売機は日本以外では見たことはない。

  日本での生活の快適さや便利さは世界屈指だ。比類ないと言ってもいい。この便利さの追求は留まることを知らないだろう。海外での日々は日本の日常を思い起こさせる。それぞれの国がまず自国民たちの幸せを考えるのは当たり前だが、便利さや豊かさが幸せに直結しているのなら、地球人として世界中に行き渡って欲しいと思うし、何か大切なものを置き去りにしていないかを時々は確認しなければならないとも思う。一時的な安心感や快楽ではなく生活そのもの、悲喜交々の自分の環境全てを含んだ現状を省みる時、少しでも街に、国に、世界に思いを馳せたい。
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