まもなく3月11日を迎える。この日は、911と同じように、現代を生きるぼくたち日本人の心に深く刻み込まれた。この1年、誰もが心のどこかに葛藤を抱えたまま過ごしてきた。当たり前の日常が戻ってきたように感じても、本格的な復興はこれからだし、原発が最悪の事態にならなくてよかったと胸をなでおろしたとしても、不安が払拭されたというには程遠い状況だ。3月3日の読売新聞に、最新の世論調査の結果が掲載されていた。回答者の72%が 「復興は進んでいない」 と答え、原発にいたっては、83%の人が、被害収束に向けた取り組みが順調ではないと答えている。東北では、なんと91%もの人が不十分だと感じているという。不満に思うのも当然だろう。復興の第一歩のはずの瓦礫の処理ですら、未だ5%しか済んでいないのだから。

  昔の人が想像した地球の姿を見たことがあるだろう。世界樹を中心とした地球や象、亀、蛇に支えられた地球だ。前者は北欧神話の、後者は古代インドの世界観だ。どちらかというと、ぼくたちには後者の方が馴染み深い。まず、世界の中心に山々がある。仏教でいう須弥山(しゅみせん)だ。その下に半球の地球があり、地球は3頭の象に、そして、その象は、巨大な亀の甲羅に支えられている。半球という点が興味深い。インド人は、はるか昔から地球が丸いということを認識していたのだろう。更に、その亀をぐるりと一巻きにした蛇が支えているというのだから、今となっては荒唐無稽と笑うしかない。だが、当時の人たちは、そんな地球の姿を信じて疑うことなどなかった。自分たちが生きている世界の核の部分に身近な動物を配したことからも “地球は生きている” ということを感覚的に知っていたのではないだろうか。ぼくたちが宇宙の果てに思い描くのと同じようなものを、当時の彼らは海の向こうに見ていた。

  “地球は生きている” 1年前の震災は、この事実を改めてぼくたちに突きつけた。自然災害は、いつどこでも起こり得るということを、誰の身にも降りかかる可能性があるということを、また、気が遠くなるような先の話だとしても、太陽にも地球にも終わりがあるということを、心に刻むしかなかった。

  2011年3月11日、地球は大きな寝返りを打った。命の故郷である海は、太平洋に浮かぶ小さな島国を襲い、一瞬にして2万人もの命を奪った。今や、世界語となった “ツナミ” は、島の北半分、その東海岸に住む人たちの朝を奪い、夜を奪った。波が街を飲み込む瞬間の映像に世界中が凍りついた。しかし、それは長く過酷な運命の始まりに過ぎなかった。テレビで刻々と伝えられる被災地の変わり果てた姿、被災者のあまりにも悲惨な状況を目にして誰もが言葉を失った。だが、ぼくたちは、被災者の皆さんの我慢強さに救われた。『日本人は、なぜあのように落ち着いて行動できるのか』 その姿は、世界中の尊敬を集め、感動さえももたらした。人間の本性は、いざというときに現れる。ぼくには、この国の人々が代々紡いできた “気質” が、ただただ美しいと思えてならない。万葉の時代から現代まで、この国に貫かれている“心意気” というか、“志” というか、“魂” とでも言ったらいいか。この “日本人らしさ” が愛おしくてならないのだ。

  被災後、日本人は久しぶりに団結した。あらゆる世代の人たちが心をひとつにして立ち上がった。戦後、ゼロから、いや、マイナスの状況から立ち上がった先輩たちの存在も大きかった。今後の日本に希望が持てるのは、どん底から立ち上がろうとしている被災地の方々の勇気と、みんなで支えようという国民の団結が目に見えるからだ。残念なことに、本当に残念なことに、この国は、ここしばらく国の指導者に恵まれていない。直接、力となり、心を支えているのは、現場で共に生活をした自治体の職員、自衛隊員、警察官、消防隊員、そして、ボランティアの皆さんだ。

  では、現地に出向けなかった人たちはどうしたか。まず、募金活動や物資提供を中心にした支援の輪が全国に広がった。募金活動は間接的にだが、すぐに力になれる重要な援助方法だ。即効性がある。ただ、義援金を分配する人の懐の深さが試される。機を見て敏にに対処してほしい。支援は、今後数10年に渡って必要とされるだろう。じっくりと、地に足を付けた支援を続けていきたい。

  1年前のその日、地震から数時間後、ぼくは、宮城県在住のベーシスト仲間に電話をかけた。プロベーシストの会のメンバーでもある彼は、仙台の音楽学校の講師をしながら、音楽活動をしている。今、考えるとあの状況の中でよく電話が通じたものだ。彼は、生徒たちを家に送り届ける最中だった。『だいじょうぶです』 緊張感のある声が返ってきた。その時点で、すでに予想をはるかに超える被害が報じられるようになっていた。彼が住む名取市も過酷な運命を受け入れなければならなかった。その後は、何度電話しても通じなかった。彼は無事なのか。いったい、ぼくたちに何ができるのか。しばらくしてネットを通じて消息を知ったベーシスト仲間から、彼が元気であることを伝え聞いた。

  ぼくたちミュージシャンの多くが個人事業主だ。バンド活動や、仕事の枠組み以外での団体活動は限られている。もちろん、個々の支援活動も大切だろう。しかし、もっと実感が伴う支援をしたいと考えても何ら不思議はない。微々たるものでも積み重ねが大切だと分かってはいても、『もっとできないか』 『何かできないか』 と考えてしまうのが人間だ。ぼくの周りにも、そんな思いを持つ人がたくさんいた。みんなで、“先に繋げていけるような” 支援をしたい。そんな思いが次第に大きくなっていった。

  『地下室の会』 (Bassment Party) というプロベーシストの集まりがある。地下室を意味する 『Basement』 と楽器の 『Bass』 をかけ合わせただけのいたってシンプルなネーミングだ。意味深な響きだが他意はない。この会の発足は、1998年11月に催されたベーシスト同士の飲み会がきっかけだった。この飲み会は定期的に続き、2000年を境にプロミュージシャン自らがBPL (Bassment Party Live) と銘打ったライブイベントを企画するユニークな団体となった。2012年3月1日現在、184人のプロベーシストが名を連ねている。

  ベーシストはひとつの現場にひとりしかいない。だから、同じベーシスト同士、名前は知っていても顔を合わすことは滅多にない。集まるようになってから感じたことだが、ベーシストは、楽器の性格上協調性があり、何人集まっても場の均衡が壊れることはない。各々が他人の話をよく聞き、我先にという考えがあまりない。のんびりしているというのとも違う。心が広いと言うべきか、度量が大きいと言うべきか。はははは (笑)、これでは、ただの自慢話になってしまう。だが、決して自画自賛している訳ではない。「こんな集まりができるなんてベーシストならではだよな」 「オレたちギタリストやボーカリストではあり得ない」 等と言う声をよく耳にする。BPLには、他のパートのミュージシャンたちも多数出演してくれているし、彼らも地下室の会を大きな心で支え応援してくれている。大切な仲間に他ならない。

  BPLは、3月22日を持って第48回目を数え、6月28日には49回目が開催される。地道に続けてきたライブも50回目を迎えようとしている。“50” は半端な数ではない。そして、この記念すべき50回目のライブを念願の復興支援のイベントとすることにした。

  50回目のライブイベントは、9月30日(日) に調布くすのきホールで行われる。Aステージ、Bステージを作り、15組〜18組のアーティストが参加する予定だ。出演しないメンバーもカメラやビデオを手にスタッフとして参加してくれる。趣旨に賛同してくれている楽器屋さんや楽器メーカー、音楽雑誌の出版社等を含めると力強いイベントになりそうだ。 PAや照明さん、舞台監督、また、制作スタッフもプロが揃った。皆、必要最小限の経費で参加してくれることとなった。出演ミュージシャンも全員ノーギャラだ。更に、宮城県在住のメンバーもビッグバンドで参加してくれることが決まった。そして、この日の収益の全額を、彼が住む名取市に義援金としてお渡ししようということになった。

  チケット代の売り上げ、支援Tシャツの売り上げ、皆さまからの募金、合せて、100万円が目標だ。まずは、ホールを満員にしたい。調布市の力も借りてこのイベントを成功させ、何年かに1回でもいい、未来に繋がる支援ライブにしていきたいと思う。皆さま、ぜひ、ご参加ください!

■地下室の会ホームページ
www.bassment-party.com
■地下室の会facebook
www.facebook.com/BassmentParty

BPL Vol.50 プロベーシストの会主催 〜復興支援ライブ!〜
2012年9月30日(日)
調布文化ホールたづくり『くすのきホール』にて
開場14:30
開演15:00

料金3000円 (全席自由)
出演 日本を代表するミュージシャンたち

Copyright(C)2012 SHINICHI ICHIKAWA
Home Page Top Essay Top