2015年、音楽ファンにとっては何とも魅力的な映画が続々と公開されている。久しぶりに観たいなあ、と思っていたところ、岡崎に住む元生徒Nから連絡があった。

「『セッション』という映画、おもしろそうなんですけど、興味があったら一緒に行きませんか。」
「おっ、いいね!だったら、ジミヘンの映画も観ようよ」

ということで、久しぶりに映画館に行くことになった。

  話題の音楽映画『セッション』の原題は、『Whiplash』という。映画の中で再三演奏されるハンク・レヴィの曲のタイトルだ。“セッション”は、音楽用語としても使われるが、他の意味もある。

セッション<Session>
① 集団で行う活動がなされる期間。また、その集団。
② 複数の音楽家によるジャズ演奏。
③ ホームページにアクセスした際、1回のアクセスで行われる一連のやりとり。

  辞書にはこうある。①と③に関しては、なるほど、そういうことかと腑に落ちるが、②の音楽用語に関しては、ぼくたちが普段使っている“セッション”という言葉のイメージとはちょっと違う。即興演奏が多いジャズの世界で使われるようになったのだろう、ということは容易に想像できるが、一般的には、ロックであろうが、ファンク、ブルースであろうが、ミュージシャン同士が、前もって打ち合わせすることなく、一緒に音を出すことを言う。リズムを決めて、キーを、あるいは簡単なコード進行を決めて進めてゆく。即興性が高く、演奏経験が少ないと間違いなく苦戦する。また、既存の曲であっても、初めて一緒に演奏する場合もセッションと呼ぶことがある。

  個人的にはこの映画のタイトルは“セッション”より、原題の“Whiplash”の方が断然いい。それでも、「セッション?音楽の映画か?」と、音楽に少しでも興味のある不特定多数の人にアピールするにはこちらの方がいいということなのだろう。

  『セッション』は、プロのドラマー志望の音楽学校の学生と、その学校のトップバンドを率いるコーチとの葛藤を描いた映画だ。その指導のスパルタ振りは、“根性”の世界そのもので、昭和30年代の日本か?と苦笑してしまうほどだ。肉体的な暴力での指導にも驚いたが、精神にその数倍ものダメージを与えるだろう凄まじい言葉の暴力には眉をしかめてしまった。ただ、映画を観ている最中はそんなに嫌な気分はしない。演出とカットが素晴らしいからだ。この映画のキーワードは“緊張感”ではないだろうか。最初から最後まで重苦しい緊張感が館内を支配していて、観ている人に“個人的な感情”を思い起こさせない。ひとたび映画が始まると、1時間40数分の間、観客は息を詰めて観続け、その緊張感が解けた瞬間に不思議な満足感を得ることになる。この映画は、人間の思考回路や精神構造を巧みに利用して作られた映画、もっと言えば、「おもしろかった!」と多くの人が感動してしまうように計算して作られた映画なのではないだろうか。この映画が評価されるとしたら、その点のみだとしか言いようがない。アカデミー賞で5部門にノミネートされ3部門で受賞したそうだが、計算されつくした演出と役者たちの名演技が評価されたのだろう。その他は、申し訳ないが、陳腐としか言いようがない。途中から心を覆い始めていた違和感は、席を立って映画館を出るころにははっきりと形になっていた。

  『セッション』は、音楽映画でありながら、音楽とは何か、人は何のために音楽をするのか、というようなことには、まったく触れられていない。また、音楽の素晴らしさを語っているとも思えない。ただ、音楽映画のすべてがそうでなくてはならないという訳ではないから、ぼくの趣味ではなかったと、そのまま受け取るしかない。それに、もしかしたら、この映画はこの映画なりに、音楽とは、ということを追及しているのかもしれないのだ。悪口ついでに吐いてしまうが、機械的に訓練し、リズムを正確に維持することや、限界を超えた速さで叩くことこそが素晴らしい、と言わんばかりの音楽論には辟易する。肉体的な技術だけに重きが置かれているように思えてならない。音楽には心の在り方が大切だと考える人たちにとっては音楽への侮辱としか感じられないのではないだろうか。芸術作品は、観る者によって感じ方は違うし、評価もそれぞれだから、あくまでも、ぼく個人の意見だということを付け加えておきたい。

  そして、クライマックスの場面だ。多くの人に称えられ、学校に君臨していた指揮者は、ただのエゴの塊でしかなかったということを、映画を観ているすべての人に晒すこととなる。彼が指揮するバンドは、彼のために、彼の名声のためだけに、存在していたのだ。彼は、自分を陥れ、失職するきっかけとなった若きドラマーに復讐する場としてコンサート会場を選んだ。――陥れたと思っているのは指揮者だけで、若きドラマーは事実を調査委員会に伝えただけなのだが――

  指揮者には、ミュージシャンシップなど微塵もなかった。彼は、ステージでいきなり若きドラマーが知らない曲を始めた。若きドラマーには“Whiplash”をやると伝えていたのだ。 知らない曲を叩けるはずがない。ドラマーは茫然としてステージを去った。指揮者は大勢の観客の前でドラマーに恥をかかせようとしたのだ。だが、ドラマーは、思い直して再びドラムセットに座り、ものすごいソロをかます。このドラムソロこそが映画のクライマックスなのだが、それがどれほど見事なものであっても、それ以上に、思いやりのかけらもない指揮者への嫌悪感が募るばかりだ。必死の思いで指揮者に付いてきた彼のバンドのメンバーたちもかわいそうでならない。彼らに対する態度にはミュージシャンシップのかけらも感じられない。ホールを埋め尽くしたお客さんに対しても同じことだ。自分のプライドを傷付けた一人の若者に復讐するために、完膚なきまでに叩き潰すために、彼はコンサート会場を選んだ。音楽家として、いや、人としても許される行為ではない。

  そんな思いが、傑出した演出や演技、素晴らしいドラムソロを含むすべてを覆い隠してしまった。ただ、映画を観た後、いつまでも気分の悪さを残し続けるということは、見方によってだが、映画としては成功なのかもしれない。

  『セッション』を観た後、渋谷に移動し、食事をしてから『JIMI:栄光への軌跡』を観た。この映画は、更に酷いもので、評価する気も起こらない。ジミヘンに対するリスペクトは微塵もなく、音楽的な部分にもまったく踏み込めていない。映画は、2時間、ただ、3人の女との確執に終始していた。隣にいたNは、最初から最後まで爆睡していた。それでいいと思った。 (つづく)

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