【Aの告白】
『なぜだか今日は朝からついていた。それも一年に一度あるかないかというほどの会心の一日だった。会議はこの上ないほどうまく運んだし商談でも予想以上の成果を得た。今日ほど会社に貢献できたと感じたことは今までになかった。夕方の風が心地いい。本当にいい気分だ。今日は車での出社日、ゆっくりと駐車場へ向かった。ドアを開けてシートにもたれ、ちょっと伸びをしてから静かに発車させた。今日はいつもと何が違っていたのか、俺は輝かしい一日を当たり前のように振り返っていた。

  今朝は25分ほど早く起きた。いつもなら目覚まし時計なしでは起きられないのに今朝に限ってはなぜかパッと目が覚めた。こんなに爽快な朝はいつ以来だろう。普段は出かける45分前に起きる。朝食は豆乳をかけたコーンフレークと果物ですませた。Yシャツは九枚をローテーションで回しているが、今日は新しいものを着た。そんな気分だった。合わせて誕生日にもらった新しいネクタイを付けた。玄関に向かうと靴もどことなしか、さあ来いと言っているような気がした。ドアを開けて朝の空気を思い切り吸い込んで車に向かった。今思えば穏やかな鳥のさえずりが今日という一日を予感させていた。

  夕方の幹線道路はかなり混んでいる。が、気になんかならない。好きな音楽をかけると自然に口ずさんでしまう。エアコンもいい具合に効いてきた。3車線の真ん中を走っているとあと数100mで交差点にさしかかるという所で右後方から1台の車がかなりのスピードで突っ込んで来た。右側は右折車線だ。それを知っていての狼藉に間違いない。突然左側の方向指示ライトを点滅させて、俺の車の前に鋭角に入り込もうとする。どう考えてもひどいマナー違反だが、こんな気分の日は 「しょうがないなあ…、こんなに急ぐなんて何かあったのかな、気をつけて帰れよ。」 と逆に心配までしてしまう。当然、前を空ける。するとあまりにも簡単に入れてもらえたので驚いたのかファザードランプを必要以上に点滅させ感謝の意を送ってくる。 「あ、ありがとう…」 その後、前の車はのぼせていた頭も冷えたのか目立った動きは無くなり車列に同化していった。』

  【Bの告白】
『なぜだか今日は朝からついていなかった。それも一年に一度あるかないかというほどの最悪の一日だった。会議ではこの上ないほど打ちのめされたし、商談は予想だにしなかった決裂に終わった。今日ほど会社に迷惑をかけたと感じたことは今までになかった。夕方の風が生ぬるい。本当に最悪の気分だ。今日は車での出社日ではないのに車で来てしまった。こっそりと駐車場へ向かった。ドアを開けてシートにふんぞり返り、「ちくしょう〜!」 と怒鳴ってから急発車させた。今日はいつもと何が違っていたのか、俺はどうしようもない一日を当たり前のように振り返っていた。

  今朝は25分ほど寝坊した。目覚まし時計なしでは起きられないのに今朝に限ってなぜか目覚ましが鳴らなかった。25分の寝坊で済んだだけでも御の字だ。こんなに不快な朝はいつ以来だろう。普段は出かける45分前に起きる。時間がないから急いで朝飯を用意した。豆乳をかけたコーンフレークと果物ですませようと思ったが、豆乳は量が足りずにコーンフレークを浸すまでには至らない。下の方だけが申し訳なく湿った程度だ。何とも情けなく半分以上はボリボリと噛んだ。ひとつあったリンゴは半分腐っていた。Yシャツは五枚をローテーションで回しているが、洗濯してあるものが一枚もない。しょうがないから一番ましなのを選んで自分をごまかすことにした。そんな気分だった。ネクタイは合わせている時間がないから適当に選んだ。後で見ると昨年、ネクタイにコーヒーをこぼした時に近くの100円ショップで間に合わせに買ったネクタイだった。模様が少し曲がっている。玄関に向かうと靴もどことなしか、しょぼくれているようだった。ドアを開けて朝の空気を思い切り吸い込もうとしたら気管に唾液が入り思い切りむせた。電車だと遅刻すれすれだ。車なら奇跡もあるりうると車庫に向かった。結果は30分の遅刻。大事な会議にも遅れてしまった。今思えば鳥が穏やかにさえずっていたにも拘わらずカラスの 「グェ〜」 という声しか耳に入らなかった自分が恨めしい。それは今日という一日を予感させていた。

  夕方の幹線道路はかなり混んでいる。本当に苛々する。好きな音楽をかける気になんてなる訳はない。ただ周りの車に当たり散らすだけだ。エアコンだけはどうにか効いているが頭に血が上った俺を冷ませはしない。3車線の真ん中を走っているとあと数100mで交差点にさしかかるという所で右後方から1台の車がかなりのスピードで突っ込んで来た。右側は右折車線だ。それを知っていての狼藉に間違いない。 「このやろう!」 闘争心が沸いてきた。何がなんでも入れてやるものか、覚悟にも似た思いで待ち受けた。前の車との間をギリギリに詰めて入れる隙を与えない。 「来るなら来い!」 他には何も目に入らない。野郎は突然左側の方向指示ライトを点滅させて、俺の車の前に鋭角に入り込もうとする。どう考えてもひどいマナー違反だが、俺のマナーも最悪だ。そんなこと気にしてはいられない。男の沽券に係わる問題だ。こんな日は 「やるかやられるかだ。俺と会ったが100年目、てめえも年貢の納め時だ、ただじゃ帰さねえ。」 逆ギレとでも何とでも言いやがれと開き直ってしまう。当然、前を空けるはずはない。すると野郎はクラクションを 「バゴッ、バゴッ、バゴッ!」 と鳴らしてきた。俺は当然、迎え撃つ。 「ブバアアアアア!」 と負けずに鳴らし続ける。周りの車は異変に気付いてオロオロしている。俺があまりにもがんばるのに驚いたのか野郎はあきらめて俺の車の後ろについた。と思ったらまぶしい!ライトを上向きにして更に威嚇してきやがった。俺はファザードランプを必要以上に点滅させ再戦の意を送った。「こ、このやろう…」 その瞬間、赤い光がバックミラーをかすめた。と同時にけたたましいサイレン音が鳴り怒鳴り声がこだました。 「そこの車、停まりなさい!」 「そこの2台だ!」 結局、俺と野郎は道端で大目玉をくった。減点されなかったのがせめてもの慰めか。野郎も若いサラリーマンだった。スーッと背中を流れた冷たい汗で目が覚めた。 「ああ、やっちゃった…」 「なんてバカな事を…」 後の祭りだった。無理やり握手させられた俺と野郎は何もなかったように相も変わらない渋滞の車列に同化していった。』

  AとBは同一人物である。僕たちはたとえば朝の何分かの違いでAにもBにもなりうる。単にいい人とか、悪い人なんていない。心の中にはいい人の部分とそうでない部分があって、それがその時の立場やそれこそ気分の違いで表面に現れる。誰だっていい人でいたい。でも、そうでない自分がいたるところで活躍しているというのも事実なのだ。そしてその嫌な部分の割合は自分が思っているよりもずっと大きいのではないだろうか。人は自分に対しては甘く、周りに対しては厳しい目を向ける傾向にあるように思う。 「私はそんなことはない」 とか 「俺はだいじょうぶ」 なんて思ってもそれはただの勘違いに過ぎない。感情はすぐに変化するし、“誰もが最高から最悪までの心を持っているんだ” ということを頭の隅において生活するだけで毎日がちょっとずつ違ってくるのではないだろうか。少しでもいい方向、いい状態を保つための特効薬は “心の余裕” だ。この “心の余裕” の芽は優しい言葉の中に、いたわりのまなざしの中に、手と手の温もりの中に、音楽や絵画、文学の中に、そして何よりも自然の中にある。

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