この世の中で一定の速さを持つものは“光”だけだという。では、ぼくたちが日々の生活の中で頼りきっている“時間”はどうだろう。電波時計は、毎晩同じ時間に標準電波を捉えて、時刻を自動的に修正するではないか。スマホや携帯電話も同様で、1秒の狂いもなく時を刻むのではなかったか。時間の長さが一定であろうがなかろうが、他の人と同じ時間軸の中で生きているということは、限りなく大きな安心感を与えてくれる。時間は、日々の長さを計る上で唯一頼れる概念であり、今がいつかを知ることで安定した社会生活を送ることができる。

  時間は一定ではないとアインシュタインは言った。ぼくにとっては勉強しても分からない分野だから、勉強しようとか、掘りさげようとかいう気は毛頭ない。しかし、確かに時間の長さは一定ではないと思わせられる現象もある。例えば、1時間とか1年とか、時間の単位の長さに関係しているものに閏年がある。ぼくたちは当たり前のように4年に一度、2月29日が来ることを知っているが、4年に一度1日を増やしたところで地球が太陽を一周する公転周期のつじつまを正確に合わせることができるのだろうか。毎年、誤差はあっても同じ頃に梅が咲き、桜が咲く。梅雨や台風も同じ頃にやってくる。元日はいつも穏やかだ。どの年も“だいたい”合っている。帳尻は合っているのだ。

  何年かに一度、閏秒がある。最近では、1年前の2017年1月1日午前8時59分59秒と午前9時00分の間に8時59分60秒が挿入された。調べてみると『現代の時間は極めて高精度の原子時計の周期から時間を定義している。しかし、実は地球の自転の周期、つまり、実際の一日は原子時計ほど正確ではない。その地球の自転周期と原子時計の周期のズレを補正するために数年に一度挿入されるのがうるう秒である』とあった。やはり、世界の枠組みとしての時間は正しいが、本当は正しくないということらしい。禅問答のようだが、どうやら時間にはアナログ的な要素も多々あるようだ。不思議、不可思議なこの世界、時間さえも絶対ではないというところがいいではないか。

  陸上競技や水泳、スケート等スピードを競うスポーツの世界はどうだろう。彼ら彼女らにとっての1秒は、ぼくたちの1秒とは次元が違うだろうことは理解できる。ただ、その1秒をどのように感じるのか、その長さがどれほどのものなのか、ぼくたちには想像すらつかない。「ゾウの時間ネズミの時間」という本をご存じだろうか。体の大きな動物ほど時間がゆっくり経過するということが書かれている。生物学的に捉えると、時間はサイズの1/4乗に比例し、体重が16倍になると時間が2倍にもなるというのだ。同じ地球上に生きていながら、体の大きさによって、時間の長さがこれほどまでに違うとは驚きだ。そういえば、ドッグイヤー(Dog year)という言葉がある。犬は人間の7倍の速さで歳を重ねるという。人間の場合だって、子供の頃の10分と57歳の10分とでは、感じ方があきらかに違う。小学生の時は、休み時間の5分間がひと遊びできるほど長かった。

  2月、初めて坐禅を体験した。こんな機会がそうあるとは思えない。誘ってくれた友人に感謝しつつ山岡鉄舟所縁の禅寺へと赴いた。山岡鉄舟は、西郷をして「金もいらぬ、名誉もいらぬ、命もいらぬ人は始末に困るが、そのような人でなければ天下の偉業は成し遂げられない」と言わしめた幕末の大人物だ。無刀流を興した剣の達人であり、書の達人でもある。個人的には、宮本武蔵よりも心に響く憧れの人だ。そんな人所縁の寺で坐禅を組めるなんて、と3ヶ月も前から楽しみにしていた。その坐禅の会は夕方から始まった。まず25分間坐禅を組み、5分の休憩、そして、さらに25分間の坐禅をする、という内容だった。1時間ほどかかる。ぼくは初めてだったので、始まる30分前に訪れ、作法を教えていただいた。結跏趺坐(けっかふざ)という両かかとを反対側の足の太ももの上に乗せる形はできなかったが、片方の足だけを乗せる半跏趺坐(はんかふざ)はどうにかできた。

  坐禅でのキーワードは「調」(ととのえる)だ。身を調え、息を調え、心を調える。1回や2回で何かが分かるほど簡単なものではないことは重々承知している。ただ、どんなことでも1回目は大切で、この経験は、今後、別の機会があったときの指針となり得る。ぼくはそのことを経験的に知っている。多くの人にベースを教えてきたが、初めてベースを持った人に伝えるのは、ベーシストにとって“最も重要なことだけ”だからだ。だから、この1回目の経験を大切にしたい。座禅では目はつぶらない。2メートルほど先の畳をぼんやりと見る。何より体勢を保つのがむずかしい。背筋を伸ばすことがこれほど大変だとは思わなかった。25分ももつのか。坐禅が始まってから数分後、導師が静かに歩きだした。視界の中で動くのは導師だけだ。動いてはいるのだが、忍びやかに、まるで存在自体を消し去っているかのようだ。その見事な歩き方も修行によるものだろう。自分の前を通り過ぎ、堂内を半周し、帰り際にまた、自分の前を通り過ぎる。導師の動きに気を取られているようでは、まったくダメだったのかもしれないが、ぼくが感じた時間は、枠組みとしての時間とは違っていた。休憩します、という声を聞いたとき、ぼくは「えっ、もう25分も経ったのか」と訝(いぶか)しんだ。やけに短く感じたからだ。休憩後の25分も同じだった。今日はあまりにも寒いから短かったんだなと思い堂の外に出て時計を見たら、約1時間が過ぎていた。それほど集中していたとは思えない。もしかしたら、ぼくは坐禅を楽しんだのかもしれなかった。同じような感覚を経験したことは何度もある。BARAKAの組曲『BHARMAD』はライブによって長さが変わる。45分、50分となることもしばしばだ。この曲を演奏する度に感じる「そんなに長い時間演奏したのか」という感覚と同じようなものかもしれなかった。演奏中は3人の出音に神経を研ぎ澄ませ、最高のアンサンブルを作るためだけに集中する。音が空間を支配し、最上の振動となってオーディエンスと感動を共有できたら最高だ。同じように、堂内での“静けさ”というアンサンブルと半跏趺坐、そして、法界定印を組んだ姿勢により、脳や体の一部が無意識のうちに感動したのかもしれない。まったくの勘違いかもしれないが、これがぼくの語彙の中で説明できる精一杯だ。

  ただ、次に坐禅を組んだ時に同じように感じるかどうか、ということに関してはまったくもって未知数だ。2回目は、背中を伸ばすのが苦しくて、足が痺れて、身悶えるほど長く感じるかもしれない。このように、ぼくたちの世界では、絶対だと思われてきた時間でさえ“いい加減”なのだ。言葉は悪いが、そんな宇宙の、地球の、住民であるぼくたちに、少々曖昧な部分があっても、どんぶり勘定的な部分があってもいいのではないか。大切なのは、目の前のことに囚われずに、広く大きくものを見る力を養うことなのではないだろうか。

  誰にでも大事な行事や特別な日がある。そんな日に限って緊張したり、気負ったりしてしまうものだ。ぼくの場合も同じだ。今までに何千回というステージを経験しているが、何度やっても真の意味で慣れるということはない。緊張を感じずにあがったステージなどない。その日は35年のプロミュージシャン生活の中でも特別だった。何ヶ月も前から準備をして、できることをやり尽くして迎えた日だっだ。

  どんなに焦ってもあわてても、始まりの時間はやってくる。問答無用でやってくる。目の前に現れる大波のように誰にも止めることはできない。ぼくは、朝から思い描いていたことをひとつずつ消化して行った。あわてることもなく、余裕を持ちすぎることもなく淡々とだ。時間は刻々ときざまれ静かに過ぎていく。心は平穏だった。そのまま、ステージの時間となった。ぼくは、程よい緊張感の中、時間に寄り添い、時間の波に漂いながら演奏していた。そして、初めて、時間の“流れ”に乗れたという感覚を持った。あらがわないことだと思った。時間は淡々とやってくる。それに対し、こちらも淡々と迎えればいいのだと思った。“淡々”という言葉は「あっさりしているさま」「淡白なさま」「ものにこだわらないさま」という意味だ。他にも、「ものの味わい、感じなどがあっさりと好ましいさま」「人柄がさっぱりしているさま」「静かに水をたたえるさま」という意味がある。“淡々”には、言葉の意味だけでは捉えられない味わいや深みがあるということだ。日々を淡々と過ごそうと思った。毎日を淡々と送ってみようと思った。 (了)

Copyright(C)2018 SHINICHI ICHIKAWA
Home Page Top Essay Top