野球部の同窓会に行った。同級生はもちろんのこと先輩や後輩も来ていた。どういうことかというと…。僕が中学生の時の野球部顧問、T先生が光中学校に在職していた10年間に指導を受けた元野球部員たちが一同に会したのである。T先生と元野球部員たちは数年前まではそれぞれ世代別に集まっていたのだが、合同でやろうということになった。今回で3回目となる。僕は初めての参加。昼から夜にかけての大イベントだ。昭和47年卒業の先輩から56年卒業の後輩までがいる。僕は52年卒業だから上から6番目、下からは5番目、ちょうど真ん中辺りだ。知っている顔もあれば知らない顔もある。

  光町立光中学校。僕の生まれた匝瑳 (そうさ) 郡光町にある雄一の中学校だ。(ちなみに小学校は 東陽小、白浜小、日吉小、南条小の4つ。匝瑳とは奈良時代にこの地を治めていた物部氏の名であるらしい。) 野球のグラウンドも陸上のグラウンドも広くてきちんと整備されている。数年前に建て替えられたばかりの美しい校舎、学校らしい学校だ。町にひとつしかないから同世代はほとんどが顔見知りということになる。1学年160人程度だったから (1クラス約40人、4クラスあった。) 全員が友達のようなものだった。匝瑳郡は九十九里海岸のちょうど真ん中。東は八日市場市と (同じ匝瑳郡の) 野栄町、西は栗山川を挟んで山武郡横芝町、成田空港から南に車で30分ほど走った辺りである。駅はない。横芝町のJR横芝駅を使う。無人駅である東側のJR飯倉駅 (八日市場市) を利用する人もいる。2006年3月、光町は横芝町と合併して山武郡横芝光町となる。

  この日はまず昼過ぎに光中の野球場に集まった。現役の生徒達とOBとが試合をするのだ。もちろん真剣である。快く試合を許してくれた光中の先生や生徒諸君には感謝だ。特に3年生は2年前の “卒業生を送る会” でBARAKAが演奏した、ということもあって久しぶりの再会となった。「“Strawberry Wine” 覚えてます!」 なんてかわいいことを言ってくれる。ユニホームは20代前半に草野球をやっていた時のものを上着だけ着た。 (背番号は44。当時のスラッガー、タイガースのバースにあやかった。ジャイアンツファンだったが。) 下はジャージ。キャップは当然マリーンズの『M』マーク!スパイクとグローブは手放してしまっていたからスニーカーを履きグローブは借りた。先輩か後輩かわからない人もいるからまずは言葉遣いに気を付けた。やたらに若い先輩もいるし、ずいぶん落ち着いた後輩もいる。70年代の運動部のクラブ活動、それは強烈だった。僕らは全員五分刈り (五分、一分、五厘、一厘と短くなる。) だった。 (その反動で長髪にしている訳ではない。) ただし、これは野球部員だったからでも運動部だったからでもない。当時、東総地区 (匝瑳郡から銚子市まで) の男子学生は全員が坊主頭だった。全国の他の地区でも男子は全員坊主という中学校はたくさんあったはずだ。小学校を卒業したばかりの1年生から見た3年生は大きかった。大人と変わらずに大きく見えた。直接の先輩である2年生は恐かった。まだまだ軍隊式 (?)、スパルタ式の影が残る時代だ。よくしごかれた。生半可ではない。先輩からは優しい愛のムチもたくさんもらった。時には両ふとももの裏側にバットの形に似た青い2本の線が浮き出ていたし、見事なコブは皆の身長を常に高くした。誤解のないように言っておくがこれらは恨み言ではない。あっという間に新一年生の半分以上が辞めていった。僕にとって中学時代の最大の実りはクラブ活動を3年間やり遂げたことだろう。これは間違いない。2年生の時は県大会で準優勝した。僕はファーストを守った。地区予選から1−0で負けた決勝までの8試合、たくさんのことが鮮明に思い出される。逆に3年生の時は力を出し切れずすべての大会で一回戦負けだった。あの悔しさも忘れられない。元旦とお盆のみが休みだった。毎日8時、9時まで練習した。照明設備の整っていた中学校なんてそうはなかったはずだ。そして何よりもほとんど毎日練習、試合に付き合ってくれたT先生には頭が下がる。厳しかったが本当にすばらしい先生だった。 (もちろん校長先生になった今でも。)

  さて試合に戻ろう。OBチームの先発投手は2年後輩の甲子園投手だ。いい勝負ができるはずであったが守備がついていかない。昔の名選手も足元がおぼつかないのだ。僕は1番ライトで先発出場!イチローの役目を託されたがなんせ約20年ぶりの試合。結果は勘弁してほしい。死球、四球、サードゴロに終わった。翌日の筋肉痛を恐れずに何度もフルスイングしたので悔いはない。逆転負け。試合は4時過ぎに終わった。それぞれが一度家に帰る。風呂に入って着替えて5時半に集合だ。

  海辺の居酒屋での大宴会が待っていた。年度ごとに全員が挨拶をした。高校や中学校で野球部の監督を務める人が多い。少年野球の指導者も多い。僕は当時、先輩や後輩の歌をよく作った。もちろんすべてオリジナルである。“思い切り交互にジャンプする片足跳び” をやりながらふたつ上の先輩の名をもじって歌った。そして、僕が歌った 『やまもす』 というその名がいつしか片足跳びの名称となり、今でも伝わっていることを初めて知った。高校進学を前にして野球をやるか、音楽をやるか真剣に悩んだ。どんなに大変でも音楽を聴く時間はあったんだなあ、と思う。ビートルズやクイーン、キッスに夢中だった。そして中学3年の今頃はミュージシャンになろうと決めていた。

  古き同士たちとの懐かしい時間はあっという間に過ぎた。まさにダイヤモンドをちりばめたような毎日の連続だった中学時代。光町としての最後の12月に思いがけず素晴らしい1日を過ごせた。この会は先生の好きな言葉から 『押忍の会』 と名付けられた。
Copyright(C)2005 SHINICHI ICHIKAWA
Home Page Top Essay Top