7月5日、美津子はいつものように駅に向かって歩いていた。梅雨の中休みが続いていてこの日も降水確率は0%、傘を持つ必要はない。ただ…容赦なく暑い。日射しは無遠慮に美津子を襲う。 「日傘を持ってくるべきだったわ」 まぶしさに目をしかめながら美津子はひとりごちた。

  美津子は新宿にある有名デパートで化粧品販売の仕事をしている。週のうち半分は遅番だから午後1時に売り場に立てるように出勤すればいい。当然帰りは遅くなるのだが、憂鬱な満員電車を避けてのんびりと出社できるこんな日が美津子は好きだった。美津子は左手を額の上にかざして少しでも直射日光を浴びないように注意しながらいつもの商店街を急いだ。駅に向かう商店街はこじんまりとしていて、栄えていたであろう頃のおもかげを残すばかりとなっている。それでも漫画のキャラクターが商店街のシンボルとなっていることもあってかテレビの “〜線の旅” のような探索番組や新聞の地方面で話題にのぼることも多かった。

  全長150メートルほどの商店街にはひとつだけ交差点がある。交差点と言っても信号はない。商店街と交差しているのは車がやっと1台通れるほどの細い道だ。商店街に一般の車が入ってくることはめったにないが、横切っているこの道を利用する車は増えていた。美津子がこの交差点にあと少し、という所で1台の白い車が右からすっと顔を出した。注意深くゆっくりと交差点を伺っている。歩行者の行動をよく観察しながらの模範的な運転と言えた。美津子との距離からすると彼女がほんの2、3秒ほど立ち止まってやり過ごすのが常套だった。それでよかった。ただそうするだけのことだった。白い車の運転手もそう思ったに違いない。美津子の前を申し訳なさそうに横切ろうとアクセルに体重を乗せた。その時だった。美津子は何を思ったか急に歩みを速めた。その結果、車の前に飛び出すことになってしまった。車は急ブレーキで前のめりになった。

  虫の…。虫のせいだった。美津子の中の虫が暴れたのだ。虫の居所が悪かった、としか言いようがない行動だった。この虫、顔も形も分からないが我々日本人にとっては切っても切り離せない存在だ。日本では万葉の昔から心の、いや腹の中に考えや感情を左右する “虫” がいると考えられてきた。 『腹の虫が納まらない』 『虫が嫌う』 『虫が好かない』 …。こう言っては伝えにくい気持ちや感情を他人の、いや虫のせいにしてきた。自分の気持ちであると誰もが分かっているのに自分以外の何かに責任を押し付ける形をとるのだから、ある種の一人芝居と言っても差し支えないだろう。落語のネタになるのも納得できる。

  美津子はさっきまでは特に虫の居所が悪いとか機嫌が悪いとかいうことはなかった。疲れているとか精神的にまいっているということもなかった。昨夜、ボーイフレンドの稔と喧嘩したことも、出掛けに母と着ている服について言い争いをしたこともまったく関係なかった。車を運転しない人には歩行者がいかに危険かということが分からない。ヘッドホンをしたまま歩いている人や、携帯電話でメールをしながら歩いている人には車の存在が伝わらないこともあるから特に注意が必要だ。人と車が接触するとほとんどの場合、車の運転手が責任を負うことになる。だから車を運転する人は歩行者の立場にあるときも車に対して譲り合いの精神で接することができるのだ。

  車は確実に徐行していたしスピードは10キロも出ていなかったから接触するという最悪の事態は免れた。美津子は運転手をキッと睨みつけた。実は一瞬前まで美津子は迷っていた。ギリギリまで迷った。足を止めようか、進めようか、本当にギリギリまで迷ったのだ。事実、美津子には 『ここは止まるべきだ』 という思いもあった。さらりと足を止めて車をやり過ご し 『ありがとう』 と会釈をする運転手ににこりと笑顔を返すこともできた。だが、なぜか今日は 『歩行者が優先なのだから停まりなさいよ』 という “歩行者絶対” ともいうべき傲慢さの虫に阿 (おもね) ってしまったのだ。自分が動けば車が急停止しなければならないと分かりきっていたのに動いてしまったという嫌な気持ちは一瞬にして消え去り、自分が被害者だという主張を態度で表すことを選んでしまったのだ。この運転手に恨み辛みがあってのこととは到底思えない。どちらかと言えば “魔が差した” という表現の方があたっているだろう。人は誰でもこのような状況に陥ることがある。右に行くのか、左に行くのか。小さな決心の連続は日々続いていく。ちょっとしたことはすぐに忘れてしまうかもしれないが、ほんの小さな傲慢が大きな災害に結びついてしまうこともある。

  人のよさそうな50がらみの運転手は睨みながら去っていった美津子と眼を合わせないように下を向きため息をついた。そして、ゆっくりと発車しようと前を見てハッとした。この車が行過ぎるのを待ちきれなかった3台が目の前に迫っていたのだ。 『今まで待っていたのだから今度はお前が道を譲る番だ。』 とでも言いたげにジワジワと近付いてくる。この道は2台の車が行き交うほどの幅がない。どちらかが下がって譲らない限りお互いに進むことができないのだ。慌てて下がろうとバックミラーを見てみると後方にも数台の車が繋がっている。ひとつ後ろの信号辺りでクラクションが鳴り始めた。その後ろの交差点でもそのまた後ろの交差点でも赤も青もなく進入してきた車が右往左往したまま機能を失っていた。美津子に睨まれた車の運転手は自分の責任だと焦りに焦った。 『ひ、ひとまず商店街に車を入れるしかない…』 ところが、なぜか間違ってエンジンを切ってしまった。そして、今度はエンジンが…かからない。どうしてもかからない…。鼓動が高鳴り張り裂けんばかりのパニックに襲われ、嫌な汗が一瞬にして体を覆った。後ろの信号の辺りでは罵声が飛び交い、何人かの運転手が言い争っている。けたたましいクラクション音の合間にパトカーと消防車のサイレンの音が聞こえてきた。 『もうだめだ…』 美津子に睨まれた運転手はガックリと肩を落とした。

  『何だか騒がしいわね』 美津子は電車の窓からいつもと様子の違う街に目をやった。11:08発の特急はゆっくりと滑りだした。美津子は人目も憚 (はばか) らずに大きなあくびをした。

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