ぼくには弟と妹が1人ずつ、そして3人の甥と2人の姪がいる。ぼくより2歳年下の弟の子供は小学校2年生の女の子と保育園年長の男の子で、4歳年下 (※早生まれのため学年だと3年下となる) の妹には中学校3年生の男の子、中学校2年生の女の子、小学校4年生の男の子がいる。彼らにとってぼくは伯父さんだ。 (※子供にとって親の兄は “伯父さん”、親の弟は “叔父さん” と書く。尚、よそのおじさんを漢字で書く場合は “小父さん” の字をあてる。 “おじさん” はひらがなが何となくしっくりくる。)

  甥や姪はぼくのことを “ギター” と呼ぶ。最初の甥Tアキが物心つくようになると母や妹はぼくのことを 「ギターのおじちゃんだよ」 と言い聞かせるようになった。子供にとってはギターもベースも同じだろうから呼び名に問題はない。ただ “ギターのおじちゃん” はすぐに “ギター” となった。習慣とは面白いもので中学校の甥も姪も未だにぼくのことを “ギター” と呼ぶ。Tアキは幼稚園のころ授業で将来何になりたいかと聞かれて 「ギタ」 と答えた。理解できない先生が書かせてみると彼は “ぎた” と書いた。先生は何のことだかさっぱり分からない。本人に聞いてもうまく答えられるはずもないから母親である妹に 「あのぅ… “ぎた” って何でしょうか?」 と聞いてきた。妹も最初は何のことだかまったく分からず何度も “ぎた” って何?と問い詰めたらしい。Tアキは 「ぎたはぎただよ…」 と涙を持って訴えるしかなかった。ぼくにとってはむずがゆくなるようなうれしい話だった。彼は現在高校受験のため必死で勉強中だ。身長は176センチを超え、ぼくとさほど変わらなくなった。抜かれるのは時間の問題だろう。2年ほど前にギターとベースをやってみたいという声を聞いたから1本ずつ妹の家に置いてきたが熱心に弾いている様子はまだ伝わってきていない。キャプテンを務めていたサッカーの方が向いていたようだ。ちなみに中学2年生のK美もまあ、よく伸びて171センチ。現代っ子の道を驀進中、バレー部のキャプテンだ。

  数日前に弟の2番目の子、Dのお遊戯会があった。5人の甥、姪たちの保育園での行事はこれが最後になるなと思って出かけてみた。園児も年長となるとしっかりしている。鉢巻きを締めての踊りは圧巻だった。 『よくぞ、ここまで育ってくれた』 会場に来ていた父兄の喜びはひとしおだったろう。心配そうに見つめていた小学2年生の姉Nも両親と一緒に胸をなでおろしていた。ぼくもDの成長に感激し、すべての園児たちのひたむきな演技にも感動した。あっ…お遊戯会でひとつ思い出した。妹の次男Hアキは幼稚園にいた2年の間、お遊戯会も運動会のダンスもその場に居ながらにして直立不動で通した。 『男がそんなもんやってられるか』 と言うのだ。彼はその場にいることで責任を果たそうとした。そうそうできることではない。いい悪いは別として信念を通した根性には目を見張るものがある。そして、それを許した先生もまた偉かったと思う。戦う4年生はサッカーに夢中だ。

  いくつかの演目を見ていてひとつ考えさせられることがあった。ある舞踏劇ではひとりであるはずの主人公が3人、相手役が3人、敵役も3人…すべての役を3人が一緒に演じていた。 『これは何だ』 と大きな違和感を覚えてしまったのだが、容易にふたつの理由が想像できた。ひとつは 「なぜうちの子が主役じゃないんだ?」 「うちの子はうまいから主役にしてくださいね。」 このような外野からの声に保育園側が押し潰された結果3人1役になったのではないだろうかということ。 (※1人3役と言葉は似ているがまったく似て非なるものだ。) もうひとつは 『万事、平等にいきましょう』 という摩訶不思議な平等主義の産物として3人1役が生まれたのではないかということだ。最近は成績表もこの平等主義のせいで評価が分かり難くなってしまい成績表としてはあってないようなものだ。これなら 「家庭と先生の連絡帳」 で十分なのでは、と思ってしまう。

  子供たちにも勉強が得意な子、スポーツが得意な子、音楽が得意な子、絵画が得意な子がいる。遊びの天才、アニメの天才、テレビゲームの天才がいる。比較するのはよくないという考え方は “素養の芽を摘んでしまう” ことになりはしないだろうか。突出するということは素晴らしいことなのに周りを見て自ら首を引っ込めてしまうというようなことになってしまわないだろうか。 『出る杭は打たれる』 という諺がある風土ならではの思想なのかもしれないし、どうせいつかは競争社会に組み込まれるのだから幼い頃だけは競争させたくないという親心的な考えなのかもしれないが、子供たちはそんなに軟弱ではない。成績やかけっこの順番なんて良くても悪くてもへっちゃらなのだ。子供は子供なりの価値観で友達や先生、親をキチッと評価している。ぼくの小学校時代にも国語や算数の授業では脇役であっても休み時間や体育の時間になると途端に輝いた友達や、図画工作の時間だけは誰よりも先生に注目された友達等個性的な子供がたくさんいた。彼らは一様に尊敬されていた。たまたま目にしたお遊戯会の演目から自分なりの考えを書いてみたのだが、本気で教育問題に携わっている方々はどう思っただろう。的外れな考えだったとしたらどうかご容赦願いたい。ただ、これらの教育問題の “根” は給食費滞納や体罰等の問題と同じところにあることは間違いないように思う。

  年長の男の子たちが舞台で側転をした。会場から賞賛の歓声があがったとき、ぼくはある光景を思い出した。頭の中に自分が保育園年長のときの映像がはっきりと浮かんできた。 “その人” はいつも保育園にいた。40数年前の記憶だけが頼りだからおぼつかないが彼は40歳〜50歳ぐらいだったと思う。角刈りの頭には白いものが混じっていた。ガッチリとした体格で背はそんなに高くない。朝夕は保育園のスクールバスの運転手として園児の送り迎えを、そして授業中には園庭や植木の手入れをしてくれていたのだが、彼はそれ以上にぼくたちの “遊び” にもっとも多くの時間を費やしてくれた。いや、単に “遊び ” と言ってはいけない、それはまさに “体育” だった。ぼくたちの体幹の重要な筋肉を遊びながら鍛えてくれたのだ。

  彼はオリジナルの遊具をいくつも作ってくれた。たとえば以下のようなものを…。まずはごく普通の “鉄棒” を想像してほしい。その鉄棒は高く、左右で支える柱は太い丸太だ。丸太は地中深く埋められている。丸太のてっぺんから鉄棒に対して垂直方向に2本の柱が添えてあり、その柱もしっかりと埋められている。更に中心の丸太と添えられた2本の柱も頑丈な板でしっかりと固定され、ちょっとやそっとでは揺らぐことのないよう細部にまで注意が行き届いている。丸太と丸太を結ぶ鉄棒からは4本の鎖が均等に垂れ下がり、鎖の先には中古のタイヤが3本連ねて吊り下げられている。正面から見ると長方形の中にタイヤが3本ずつ4列並び、合計12本が均等に配置されているように見える。

  この遊具でどうやって遊ぶかというと…何通りもの遊び方をしたがたとえばこうだ。ぼくたちはタイヤから17、8メートル離れた場所に並び 「ヨーイ・ドン!」 でタイヤに向かって走り出す。ひとつ目のタイヤには頭から入り、ふたつ目は足から入る。そして1番上のタイヤはまた頭から入るがこの時は上を向かなくてはならない。鉄棒をつかみ懸垂のような形で体を抜いたら飛び降りる。最後に一番下のタイヤをくぐるとスタート地点まで猛ダッシュだ。4人ずつ競い合って最後の4人に絞られるまで繰り返す。その4人の中で勝った人がその日のチャンピオンだ。駆け足が早いだけでは勝てない。瞬発力や敏捷性、持久力やバランス感覚も必要なゲームだ。ぼくたちは休み時間ごとにそして毎日の放課後この遊びに熱中した。

  ある日、彼は跳び箱を用意していた。 「まずはこっからだ!」 跳び箱は3段だった。3段ぐらいならほとんどの園児が飛べる。何度も飛ばしておいて簡単に飛べるようになると4段、5段と高くしていき1ヶ月もしないうちに何人もの園児が8段を飛べるようになっていた。保育園児にいきなり8段なんて考えるだけでも恐ろしいがこの方法は的を得ていた。跳び箱8段が普通に飛べるようになると彼はバネ付きの踏み切り台を用意した。跳び箱から20センチぐらい離したところから始め、30センチ、40センチ…そして1メートルと距離を伸ばしていった。これも競争だ。恐怖心とも戦わなければならない。踏み切り台の距離が伸びて飛べなくなった園児たちは周りで見守っている。そのうち何人かはただ飛び越えるだけでなくジャンプして跳び箱に “バシッ!” と手をついて一回転して着地するということまでできるようになっていた。ぼくもそのうちのひとりだったが運動会で模範演技をしたときは父も母も目を丸くしたらしい。今だったらこんなことは危険だと言ってやらせてもらえないだろう。運がよかった…と言ってしまえばそれまでだが5、6歳の頃に彼のような人に出会えたのは本当に幸せだった。

  ぼくたちは彼のことを “コーゴ” と呼んでいた。ぼくたちにとって “コーゴ” は日本語ではなく、かといって何語でもなく、とにかくぼくたちにとっては特別の名前だった。真のヒーローの名前だった。ぼくたちは尊敬と憧れの意味を込め て “コーゴ” と呼んでいたのだ。当然、先生たちは 「何ですか、呼び捨てにして!」 「向後さんです!」 と何度もぼくたちを叱ったが、 “コーゴ” 本人がまったく意に介さない。彼だけはぼくたちが呼ぶ “コーゴ” という言葉の中にどれだけの親しみと憧れがあったのかを知っていたのだ。 「コーゴー〜!」 と呼ばれてニヤッと笑う向後さんの口元ではいつも金歯が光っていた。

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