レシートには12800円と書かれていた。 『あれ?12800円だったっけ?12600円じゃなかったかな』 ノリオは一瞬自信がなくなった。店が値段を間違えるなんて普通思いはしない。 『間違ってたとしても200円ぽっちだ。いいか…』 そのとき店員もノリオの小さな異変に気付いたようだったが何もなかったかのような顔をしていた。後で考えると店員もこのときミスに気付いたに違いなかった。ノリオは黒のソフトケースに入れられたガットギターを手にレジを離れると念のためにアコギのコーナーに戻った。見ると残されたAP-53にははっきりと12600円というタグが付いている。 『見っけもんだったからな。あきらめてもいたし200円ぐらいいいよな。それに200円じゃクルームつけるのもちょっとはずかしい』 ノリオは何も言わずに店を出た。

  駅へ向かう道、目的のギターが買えた喜びでいっぱいのはずなのにノリオの心は釈然としないままだった。200円、この200円が問題だった。ノリオは考える。もし500円だったら即座に伝えていただろう。店員にしても200円なら気付かれないかもしれない、たとえ後で気付いたとしてもあきらめてくれるんじゃないだろうか、更に万が一金額が違うと指摘されたとしても気付かなかったと言えば許してもらえるだろう、というような2重3重の自己弁護の気持ちに囚われて正直に言う機会を黙殺してしまったのではないだろうか。12800円と12600円…なんとなく似ているし、どちらかというと商品には12800円の値を付けるのが普通だ。クレジットカード払いだったということも影響していたのかもしれない。一度入力したクレジットカードの金額を訂正して打ち直すのは面倒に違いなかった。

  店員が故意に200円多くもらおうとしたなんてことは考えられない。ノリオは深く考え込んでしまった。 『このままだとずっと気になっちゃうなあ…』 駅が見えてきた。 『やっぱりだめだ!』 ノリオは携帯電話を取り出すとグレート楽器・街中店に電話をかけた。出たのはあの店員だ。 「さきほどARAIのガットを買ったものですけど、金額間違っていますよね」 「あっ」 店員はばつの悪そうな声を出した。 「12800円じゃなくて12600円ですよね」 「すいません!今どちらですか?申し訳ありませんが戻ってもらえませんか。差額をお返しします」 やはり店員は200円のことを知っていた。ノリオにはそう思えた。 「分かりました。今から戻ります」 それでもノリオの浮かない気持ちは変わらなかった。

  店に戻ると店員は接客中だった。ノリオは話の腰を折らないようにタイミングを見計らって声をかけた。店員はやはり気が咎(とが)めるのだろう、ノリオの顔を見ようとはしない。すぐにレジに走ると100円硬貨を2枚取り出した。 「申し訳ありませんでした」 ノリオは出された200円を黙って受け取ると 「どうも」 と力なく礼を言い再び店を後にした。店員の態度から、推測していたとおり彼の単純ミスが原因だったと思えた。ノリオは返金してもらえばもう少し気が晴れるかと思っていたのだが心はいっこうにすっきりしない。そのまま店の前で信号待ちをしていると 「どうした?」 店の奥から店長らしき人の声がする。店長はノリオと店員との間に何かがあったことを感じ取ったのだろう。店員はこれからノリオとの経緯を話さなければならない。このような場合どれほどしぼられるのだろうか。簡単な注意だけで済むのだろうか。

  ノリオにも負い目はある。まず、気が付いた時点ですぐに指摘すべきだった。その後も値段を確認し、いったんは納得して店を後にしたにもかかわらず電話をかけて店に戻ったのだ。やはり問題は200円という金額だった。ノリオだって200円がほしかった訳でもない。やり場のない感情ですっかり滅入ってしまったノリオは正直に伝えたのがよかったのか、伝えない方がよかったのかわからなくなってしまった。足取りは更に重くなる。実際、事実を伝え200円を返してもらったのだからそれでよかったんだ、それが普通なんだとも思うのだが、それでも心に残ったのはネガティブな感情だ。だからと言って、もし、ノリオが何も言わないでいたら、ノリオも店員もしばらく気がかりを抱えたままでいたに違いない。どちらの心にもネガティブな感情しか残らなかっただろう。結局はどちらに転んでも心にしこりを残す結果になっていたのだ。 『正直ってなんなんだ?』 世の中はむずかしい。ノリオは天を仰ぎながら会社へと急いだ。


  1日も早くソウタにギターを渡したかったが週末まで待つことにした。ほんのちょっとでもギターの手ほどきをしたかったのだ。土曜日、ノリオはヨウヘイの家に向かった。ソウタはギターを見るなり飛び上がった。何度も何度も飛び上がって体中で喜びを表していた。いつもはおとなしいソウタのこれほどの喜びようを見てノリオもうれしさで胸がいっぱいになった。 『こんなに素直に喜べるっていいな。なんだか感動しちゃうよ』 ノリオはソウタに弦の押さえ方と弾(はじ)き方、そしてドレミファソラシドを教えた。たどたどしくもソウタはなんとか弾いている。 「すごいぞ、ソウタ!」 「ドレミファソラシドとドシラソファイレドを毎日10回ずつ練習するんだよ」 「うん」 「次に来たときにはまた違うのを教えてあげるから」 「わかった」 ソウタはしっかりとした声で返事をした。

  数日後、ノリオはソウタに電話をした。 「ちゃんと練習をしてるか?」 「うん、やってるよ」 「そうか、偉いぞ」 「でもね、ノリオジ、ごめんなさい。ソウタね、約束やぶっちゃった」 「えっ!どうして?」 「火曜日はサッカーの日だからギターの練習はできないんだ」 「う〜ん、マイッタ…これまたなんと正直な…」 ノリオはふと数日前の出来事を思い出した。 (完)

※ justice:正義 公平

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