手帳の裏表紙に1枚のシールが貼ってある。縦10センチ、横5センチ、モノトーン。あるイベントのフラーヤーだ。書かれている文章を上から順に書き出してみよう。

『'78 ロックフェスティバル』
黒いラインに白抜きで書いてある。

『俺たちはCHIBAが好き!!』
小さく細かい字で書いてある。すぐ下のROCK ME BABYの添え書きだ。マリーンズ応援団のCHIBAティーシャツを思い出す。

『ROCK ME BABY』
イベントタイトル。大きく目立つように書いてある。B.B キングの曲名からとったのだろうか。この曲は多くのアーティストがカヴァーしているが、中でも1967年のTHE MONTRLEY INTERNATIONAL POP FESTIVALでのジミヘンの演奏やジェフ・ベック、エリック・クラプトンがB.B キングと共演した時の演奏はよく知られている。

『時:8月21日(MON)』
月曜日のイベントだが夏休みだから問題はない。登校日だったが当然休んだ。当時、21日は先生方の給料日だった。そのせいでこの日が登校日になっていたと思われる。手帳には「登校日だけどしょうがないのです」と書いてある。文字は躍っている。

『所:千葉港公園 (市役所うら)』
これはどこだろう?海を背にしたステージの面影しか覚えていない。行ってみたいものだ。

『P.A:FRESH AIR』
音響会社の名前。

『出演:ロックバンド多数』
確かに多数のバンドが出演した。10バンド以上が演奏したと思う。

『料金:無料』
野外イベントはこうでなくちゃね。

『主催:LIVE HOUSE MOTHER'S』
MOTHER'Sだけが一際大きなロゴで書かれている。千葉市の老舗ライブハウス。当時 (もちろん、ぼくの知る限りの話だが) 千葉県内でプロも出演するようなライブハウスはここしかなかった。MOTHER'Sに出演することは大きなステイタスだった。残念ながら今はない。

『問合わせ:0472・・・・・・・』
MOTHER'Sの電話番号。

 MOTHER'Sのロゴ以外は手書きだ。このシールのおかげで30年前の出来事がくっきりとよみがえる。7月2日の初ライブを成功させたCHILDにとって、このフェスティバルは次の目標となった。願ったり叶ったりの大きな目標だ。どんな経緯でこのフェスティバルに出演するようになったのか詳しくは覚えていないが、テツロウが持ってきた話だったと思う。規模の大きいイベントだからテープ審査か何かがあったはずだ。きっと、テツロウはどこかでこのイベントのことを知り、主催のライブハウスMOTHER'Sに直接CHILDの練習テープを持って行ったか、郵送したかしたのだろう。かなり後で聞いた話だが、彼は高校2年生のこのころからMOTHER'Sに時々顔を出してはカウンターで一杯やっていたらしい。そんな流れの中でフェスティバルのことを知ったのかもしれない。それにしても…さすがだ。

 手帳によると、8月13日にはテツロウと連れ立って千葉までフェスティバルの打ち合わせに行っている。今、思い出した。50CCのバイクを2台連ねて千葉まで行った記憶がある。CHILDは2番目に出演することになった。演奏時間は25分。1曲3分から4分だからMCを入れても5曲か6曲は演奏できる。どんな曲を演奏したのか…。キャロルの「ヘイ・タクシー」はやったはずだ。ビートルズの「I saw her standing there」も。あとはまったく覚えていない。

 当日は快晴。6時10分に起きて7時12分の快速電車に乗った。リッカとキンジ、それに友達が何人かいた。テツロウはバイクだ。高校2年生にしてはでき過ぎの大舞台だ。無限の期待に胸躍らせていたんだろうなと思うとほほえましい。どれくらいのお客さんがいたのだろうか。少なくとも300人から400人はいたと思うがあのころの印象だ、まったくあてにはならない。ぼくたちはあがって緊張するどころかまったくの自然体でベストの演奏をした。不思議なことにあの日、ステージの上で感じた爽快で痛快で胸のすくような想いだけははっきりと覚えているのだ。あれだけ満足度の高いステージはその後も数えるほどしかない。CHILDここにありという印象は残したに違いないのだ。この日MOTHER'Sへの出演が決定した。

 79年以降はこのフェスティバルの名を耳にすることはなかったから、きっとこの年だけのイベントだったのだろう。競演したバンドで名前を覚えているのは『ウシャコダ』と『SHOUT』だけだ。ウシャコダはこの年のYAMAHA主催のコンテスト『イースト・ウエスト』で最優秀グランプリを受賞してプロデビューした。ソウルフルなバンドだ。麦藁帽子に農作業姿が話題になったから覚えている人も多いかもしれない。(※CHILDも作業服だが特に流行だった訳ではない。)7、8年前にウシャコダのボーカリスト藤井康一さんとステージを共にする機会があった。ぼくは『ザ・ルースターズ』のギタリスト下山淳のソロライブにベーシストとして参加していたのだが、藤井さんがそのライブにゲストとしてやってきたのだ。2曲ほど一緒に演奏した。藤井さんにROCK ME BABYのことを話したらびっくりしていたがすぐに懐かしそうに微笑んだ。SHOUTはぼくたちと歳が近く、バンド編成も同じ。リーゼントをきめてロックンロールをやっていたという点も似ていた。当然気にはなった。彼らはかなり“イカシタ”(※このごろあまり聞かない。すでに死語だな。)バンドで、ぼくたちは後にSHOUTがカヴァーしていた数曲をレパートリーに加えた。

 7月2日の初ライブから8月21日のフェスティバルまでの間にはバンドのこと以外でもいろいろなことがあった。今では考えられないほど盛りだくさんだ。7月10日から13日までは期末試験だった。5月後半に中間試験が終わったばかりなのにすぐ試験だなんて。やっぱり高校生は大変だ。ここで13日のエピソードをひとつ。午前中に試験を終えると午後から白里町(当時)のテツロウの家で麻雀をした。その帰り道のことだ。ぼくは友達ふたりと126号線をバイクで突っ走った。3人ともアクセル全開、全速力だ。誰かが言い出すともなく競争になった。だが、僕の愛車MR(エムアール)50だけがなぜか調子が出ない。2台にあっという間に引き離された。ふたりとの距離はどんどんと開いていく。「おい、どうした!がんばれ!」恥ずかしさと悔しさが入り混じりぼくはアクセルを思い切り踏み続けた。そのときだった。前方にパトカーのライトが目に入った。アッ!と思ったときにはもう遅い。前を行くふたりがパトカーの脇に誘導されているのが見えた。ぼくはできる限り自然にスピードを落とした。そしてそのまま警察車両に迫った。完全にやられたと思い、観念したのだが愛車MR50は停められることもなくスーッとパトカーの脇を通り抜けた。「・・・・・・・」「あれ?だいじょうぶなの?」思いがけない展開に思わずホッとしたがぼくは情けないことにそのままバイクを制限速度で走らせ、ついにはふたりを置き去りにしたまま家に帰ってしまったのだ。ふたりのところに引き返すのは変だし、調書作成には時間がかかるのでどこかで待っていても彼らがいつ解放されるかわからない。帰ってしまうのも致し方ないことだとは思えるが友情という点では落第だ。ぼくは愛車MR50に救われたかっこうとなったがふたりの友達は33キロオーバーで停学をくらってしまった。

 7月24日から8月8日までの16日間は泊まりがけで予備校の夏期講習に行った。宿は市ヶ谷駅にほど近い外堀通り沿いにあった。秋田、北海道、岐阜から来た3人との4人部屋だ。電車で予備校に通ったはずだがどこをどう行ったのか皆目見当もつかない。勉強をしなければという意識はあったのだろうが行動はなってない。夏期講習3日目の26日には千葉文化会館で『セラマサノリ』を見たと書いてある。(何でカタカナなんだ?それに『ツイスト』ではなかったのか?)おもしろいから夏期講習期間の主な行動を記してみる。

◆7月29日(土)…東金の友達の家に泊まる。
◆7月30日(日)…近くの小学校でソフトボールのコーチをしてビールを飲む。1時から3時半まで昼寝をしたあと卵入りうどんを2杯食べて市ヶ谷の宿に戻る。
◆7月31日(月)…授業後、錦糸町の親戚の家に行く。
◆8月1日(火)…映画『サタデーナイトフィーバー』を観る。燃える。
◆8月3日(木)…立川に行く
◆8月4日(金)…テレビで『宇宙戦艦ヤマト』を観て感動する。
◆8月5日(土)…再び東金の友達の家に行き泊まる。
◆8月6日(日)…またまた近くの小学校でソフトボールのコーチをする。
◆8月8日(火)…予備校最終日、同室の友達を上野まで送り光町に帰る。

 ああ…無茶苦茶だ…。土日は予備校も休みだったろうが普通は宿で勉強するものだ。それなのに毎週末、友達の家に泊まりがけで遊びに行っている。それどころかおとなしく宿にいたのは16日のうち6日だけだ。両親がこれを読んだらどんな顔をするだろうか。とほほ…すみませんでした!家に帰ってからも海水浴に出かけ、麻雀をし、遊びに遊んだ。バンドの練習は15日と20日のみ。これで大事なフェスティバルを迎えたなんて信じられない。兎にも角にも一大イベントであるロックフェスティバルで大成功を収めたCHILDの快進撃は続くのであった。(つづく)

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