ちょっと前の話になるが、映画 “ALWAYS 三丁目の夕日” を観た。スクリーンに現れた昭和33年 (1958年) はまぶしかった。僕が生まれるわずか3年前の映像だ。こんなんだったんだなあ、と懐かしさや驚きでいっぱいになった。釘付けの2時間だった。映画はストーリーそのもの (もちろん合格点だが) よりも記憶とノスタルジックな感覚を呼び起こすという意味ですごかった。

  頭のどこかにしまい込んであった映像がジワジワと蘇ってきた。僕は36年生まれ、記憶の始まりは3〜4歳からだから映画の昭和33年とは6、7年の誤差がある。けれども今の6、7年とは違って目に見える変化はそれほどでもなかったように思う。白黒のテレビにも見覚えがあったし、(特にチャンネルが懐かしい。右へ左へガチャガチャと力任せに回してよく叱られたものだ。ちなみに33年のテレビ普及率はまだ10%だった。) 見たことのある車もたくさん登場した。ダイハツやマツダのオート3輪車はかなり微笑ましい。そういえば我家にもあった名車スバル360がデビューしたのもこの年だ。そのほか、この年にデビューしたものを並べてみると…。日清のチキンラーメン、ファンタ (グレープとオレンジ)、渡辺製菓の粉末ジュースの素、缶ビール (アサヒ)、エポック社の野球盤、フラフープ…。初の1万円札もデビュー、聖徳太子の有り難さは福沢諭吉の比ではなかった。この年の大学初任給が13,467円だったからその1万円札、今だったら10万円以上の価値だ。そして永遠のヒーロー (?) 月光仮面の登場!彼の愛車でもあったホンダのスーパーカブもこの年に誕生した。また、東京タワー (333m) が完成、高さでエッフェル塔を抜いた。ロカビリーブーム、栃若ブーム、力道山ブームが起こり、我等が長嶋茂雄も4打数4三振のプロ野球デビュー。(そういえば長嶋さん、だいぶ元気になった。あの笑顔が戻ってきた。) 更に続けると…封書10円、はがき5円、バス代15円、風呂代16円。そして当時の平均寿命は男65歳、女69.6歳、現在と比べるとかなり短い。こうして並べてみると昭和33年はおもしろい年だったことがわかる。戦争が終わってからまだ13年しか経っていない。ここから日本は想像を遙かに超えた発展を遂げる。
 
  映画の原作は西岸良平の漫画。昭和49年からビッグコミック・オリジナルで連載され今でも続いている。ビッグコミック・オリジナルは当時かなり人気があって中学生、高校生の頃よく読んだ。 (『あぶさん』、『釣りバカ日誌』、『浮浪雲』 等もそのころからあった。) スクリーンには昭和33年の街並みが事細かに再現されていた。東京タワーが少しづつ出来上がっていく姿には感動も覚えた。CGを駆使したVFXという技術によって描かれているらしいが違和感はまったくない。子供たちにとっては夢の宝庫だった駄菓子屋 (最近も人気があるらしい) を見て僕が通った中央保育園近くの店を思い出した。二階堂と川島だ。保育園には4歳から3年間通った。40年も前の店の名前をすっと思い出すなんて映像の力は恐ろしい。店のおばあさん (おばさんだったかもしれない) の顔も浮かぶ。クジで一度だけ2等が当たったことがある。まさに夢の一瞬だった。「ただいま〜〜〜!!」 と言ってランドセルを放り投げた瞬間に 「行ってきま〜す!」 と言って遊びに出かけたのも懐かしい。あの頃はとにかくみんなよく遊んだ。子供らしく過ごせた時代だった。良くも悪くも時代は変わった。とにかく便利になった。10軒に1軒しかなかったテレビが携帯電話でも見られるようになった。例を挙げるときりがないから止めておくが、このような科学技術はまだまだ過渡期でどこまで便利になるのか想像もつかない。とてつもないところまで行くだろうというのは分かる。こういう点において人間の欲望には限りがない。困ったものか、そうとも言えないか。 「もうこのくらいでいいんじゃないの?」 と思っている人も多いし、「次はどうくる?」 と楽しみにしている人もたくさんいる。自分はというと、どうにかこうにかくっ付いて行っているという感じだ。便利さの中にどっぷりとつかりながらもまだまだ追いつかないし使いこなせていない。
 
  変わらないものもある。“本物” の価値だ。ロックの場合も50年代、60年代、70年代の作品で永遠に残るであろうものがたくさんある。いつ聴いても新鮮に聞こえる音楽がある。これらはロックのクラシックとして、またバイブルとして残っていくに違いない。レコーディングの技術は本当に進歩した。モノラル (1チャンネル) →2チャンネル (ステレオになる) →4チャンネル→8チャンネルと進歩してきて画期的だった16チャンネルのレコーダー。このクラスの機材が今では数万円で買えるようになった。自宅でも簡単に作業ができるようになった。だがどんなに性能がよくなっても音そのものが良くなるとは限らない。重要なのは機材の性能ではなく、それを使う側の力量とセンスなのだ。
 
  “音楽” を 『売る』 ためには時代を読む力が必要だろうし、その時代を彩る音楽も必要だろう。しかし時代に関係なく必要とされる音楽もたくさんあるし、人類が続く限り心を潤し続けるだろう音楽もある。80年代から90年代にかけて日本でも100万枚、200万枚と売れたアルバムがある。その中には今では見向きもされないものが少なくない。もちろん売れるに越したことはないが、たとえ1年に5千枚、1万枚、2万枚の売上げだったとしても100年、200年と聴き継がれることの方がはるかに価値がある。流行廃り (はやりすたり) に関係のない普遍的な音楽を作り続けたいと心の底から思う。
 
  映画の話からかなり飛躍してしまった。今回のエッセイは9編目の 『九の葉』、3×3=9、昭和33年 (この年も戌年だった)、に懸けて339というタイトルにしたのだが (当然わかっていますよね。失礼。)339についてもうひとつ。 高校入試の受験番号が339だった。母は 「お前、きっと散々苦労 (339) するよ。」 と脅しにも似た言葉 (えっ!と僕は本当に不安に思った。) を吐いておいて、合格した数日後に 「そういえば339って言ったら三三九度 (339) でおめでたい番号だったわね。」 ときた。思わず目が点になった。
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