8月21日のイベント Rock Me Baby が終わると夏休みは残り10日余り。だが、高校生は夏の余韻などに浸ってはいられない。都度都度申し上げるが高校生は毎日が盛りだくさんなのだ。それに高校2年生ともなれば卒業後の進路を考えなくてはならない。翌日の22日からは2学期に先立って課外授業が行われた。強制参加だったのか自由参加だったのかは覚えていないが午前中2時間だけの授業だったからそれほど苦ではなかったはずだ。手帳の記録によると22日、23日、24日、25日と授業にはきちっと出たようだ。ただ、午後のスケジュールは相変わらずで友達とどこそこかしこに出没してはエネルギーを発散していたらしい。

  さて、問題の日がやってきた。何が問題なのだと言われると困ってしまうのだが1978年のぼくにとっては非常事態、いや異常事態に陥ってしまったと言ってもいいほどのインパクトを持った1日となった。8月26日土曜日大安吉日、この良き日にぼくはリッカの高円寺の家に泊まりに行くこととなった。リッカのお父さんが高円寺駅近くに店を開いていたこともあって、彼には光町の家以外にもうひとつ生活の拠点があったのだ。この日の目的はディスコに行くことだった。この年は1977年にアメリカで制作されたジョン・トラボルタ主演の映画 『サタデー・ナイト・フィーバー』 が大ヒットして世界中でディスコブームが巻き起こっていた。ビージーズの 「ステイン・アライブ」 が収録されている映画のサウンドトラックも大ヒットし、世界中で4000万枚のセールスを記録した。このアルバムは世界でもっとも売れたサウンドトラックとなった。ビージーズの曲は他にも 「恋のナイトフィーバー」 など6曲が収録されているが、クール&ザ・ギャングやKC&サンシャインバンド等のソウルの大物たちも名を連ねている。ベートーベンの交響曲第5番 「運命」 をディスコアレンジしたウォルター・マーフィーの 「運命'76」 もこの年を代表する曲のひとつとなった。覚えている人も多いだろう。リッカは何度かディスコに行ったことがあった。そして、急に大人びてきたように見えた彼がぼくをディスコに誘ってくれたのだ。お勧めのディスコには日帰りでは行けない。リッカは高円寺の家に泊まればいいよと言ってくれた。

  昼過ぎ、ぼくは一泊分の荷物を持ってリッカと総武本線に乗り込んだ。総武本線の車両の色は縹(はなだ)色というか納戸(なんど)色というか、コバルトブルーに近い青と鳥の子色のツートンカラーだ。今、考えると派手さはないがコントラストは絶妙でバランスもいい。当時は生活の中で電車の色を意識することなどまったくなかった。街も街を通り抜ける電車もそこに住む人にとっては、それ自体が日常の中の“当たり前”として存在しているからだろう。地元を離れ別の場所で生活している人が久しぶりに実家に帰った時に電車を見ると懐かしさがこみあげるという話を聞いたことがあるが同感だ。ただ、この想いは電車の姿や色が昔と変わっていない場合のみに限る。新型の車両に変わっていたり、色を塗り替えられていたのではこうした感情は決して生まれない。鉄道マニアでなくとも歴史を刻んだ車体には敬意やノスタルジーを感ずるものだ。阪急電車の葡萄(えび)色や世田谷線の深緑は印象深い。


  僕たちは千葉駅で下車しMOTHERSに寄った。「3時半 MOTHERS」 と書いてあるから高円寺に着いたのは夕方だったろう。リッカのおばさんがご飯を用意してくれていた。韓国風焼肉はほんとうに美味かったし韓国海苔や本場のキムチには感動もし、びっくりもした。さて、いよいよ出発だ。目指すは池袋のアダムズアップル。その名は忘れられない。店名を旧約聖書のアダムと林檎の逸話から名付けるなんて気が利いている。手帳には19時から20時まで新宿をうろついてから池袋へと向かったと書いてあるから文字通り新宿をただうろついたのだろう。新宿に来たというだけで興奮していたに違いない。新宿から池袋までは山手線で約10分、車体はご存知萌葱(もえぎ)色だ。店に入るとまず激しい照明に驚いた。別世界を思わせる豪華な内装や派手な服を着たたくさんの女性を目にするのも初めてだった。まさに男と女がひしめいている。かかっていたレコード、ディスコサウンドの音量も半端ではない。始めは興奮よりも気後れの方が先に立ってどうにも馴染めなかったのだが、次第に場にも慣れリッカと共にフロアに出て踊ってみた。踊ると言っても右、左、右、左とステップを踏むだけだ。変な恥ずかしさは最後まで消えなかったが周りの人たちと同じ動きをすることでちょっとだけ安心した。

  急に照明が暗くなった。「チークタイムだ」 リッカが言った。チークダンスは直訳すると頬踊り(はははは)、要するにムーディーな音楽に合わせて頬を付けるように寄り添って踊ることだ。女性を同伴している人はいいが、それ以外の男は知らない女性に 「すみません、踊ってくれませんか」 と声をかけて誘わなければならない。リッカはスマートに女性を誘い踊り出した。しばらくはさすがだなと感心しながら見ているだけだったが、何度目かのチークタイムには勇気を出して誘ってみた…ような気がする。その結果、ぼくがチークダンスを踊ったのか踊れなかったのかはまったく覚えていない。ぼくはとにかくディスコに来たという事実だけで大満足だった。

 
  この日がなぜ問題の日だったのか、それをこれから書かなくてはならない。もし、何かを食べながら読んでいる方、もしくは読んだ後に食事をしようと思っている方がいたらここから先はどうかご遠慮ください。後日改めて読んでいただいた方がいいかもしれない。

  アダムズアップルでは食べ物はチケット制で入場料を払うと2品分のチケットがもらえたように記憶しているが、飲み物は自由に何度でも飲むことができた。どこのディスコでもそうだったと思う。酒は薄いウイスキーの水割りだ。ビールはどうだったのか…。ぼくの記憶にはウイスキーの水割りがカウンターに並んでいる絵しかない。ぼくはそれまで酒を飲んだことがなかった。両親ともに飲まないから口にする機会がなかったのだ。自分が飲めるのか飲めないのか、強いのか弱いのかまったく分からなかった。高校生ならば酒にも強くありたいと願うのは不思議ではない。タバコを吸ってみたいと思うのと同じ気持ちだ。もちろん、ぼくたちはウイスキーの水割りを口にした。リッカはディスコに来た回数分、酒の経験もあったからこの点でも先輩だった。美味いとは思わなかったがなにせ薄く作ってある。初めてでもどうにか1杯ぐらいは飲み干すことができた。その時は 「もしかしたらオレ、酒大丈夫かもしれない」 などと調子に乗ってはしゃいだのかもしれない。

  時間は過ぎた。電車のあるうちに帰らなければならない。高円寺に帰るには山手線で新宿駅まで行き、新宿で蒲公英(たんぽぽ)色の総武線から乗り入れている電車に乗り換える。20分に満たない。電車に乗ってからも初めてディスコを体験した興奮冷めやらず、ぼくは浮かれたような気分だった。ただ酒が効いてきたのか、池袋で電車に乗った時は真っ赤な顔をしていたらしい。新宿駅で乗り換えたあたりから気分が悪くなってきた。初めて体験する不快感だ。電車の揺れが気持ち悪さを急激に増長させた。カタンコトン・カタンコトンというリズムが胃の中の物を押し上げる。『や、やばい。吐きそうだ』 胃の中の物が食道の中ほどまでせりあがってきた。リッカに 「気持ち悪くなってきた」 と助け船を求めたがリッカにだってどうすることもできない。大久保駅を過ぎた。高円寺はもうすぐだ。異変を感じたリッカが小声でつぶやく。「ちょ、ちょっとだけ我慢しろよな」 「うん」 ぼくは懸命に堪(こら)えた。顔は茜(あかね)色から白藍(しらあい)色へと変わり危険状態に陥っていた。『だ、だめだ…』 だが、電車の中で吐き出すなんてみっともないことはできない。それこそ必死になって耐えに耐えた。「高円寺〜」 「高円寺〜」 アナウンスの声が聞こえる。『やった!』 『着いたぞ!』 ぼくは思わずドアに駆け寄った。電車はゆっくりと滑り込む。

  だが、限界だった。ドアが開いたその瞬間、ぼくは両手で思い切り口を押さえた。しかし、胃からの圧力はものすごい。大量の物体が堰を切ったように指を押し開いて噴射した。「キャー!」 電車を待っていた大勢の人たちは悲鳴をあげて後ずさった。道ができた。まるでモーゼのようではないか。…なんて思うはずがない。ぼくは駆け降りて閉まっていた売店の側にうずくまった。あとはただすべてを吐き出すだけだった。それは電車が停車し発車するまでのほんの数分の出来事だった。一瞬にして楽になったぼくは口元を拭きもせず顔をあげた。ゆっくりと走り出した電車の中からもホームにいる周りの人たちからも蔑みと憐れみの視線がぼくに集中していた。どうすることもできなかった。ただ醜態を晒すしかなかった。

  結局、後始末さえせずに逃げるようにして立ち去ってしまった。あれほど恥ずかしくみっともない思いはしたことがない。同じような光景を見かけたらぼくだって嫌悪するに決まっている。リッカにとっても大迷惑な話だったと思う。だが彼は何も言わずに肩を並べて歩いてくれた。今でも駅で汚物を掃除した跡を見かけると、その度にこの時の出来事を思い出してしまう。本当に迷惑をかけてしまった。特に掃除をしてくれた人に対して申し訳ない気持ちで一杯だ。申し訳ありませんでした!


  これが1978年8月26日土曜日大安吉日、ぼくにとって問題の日の顛末だ。リッカの家で風呂に入ってすっきりすると胃の中の物をすべて吐き出してしまっていたせいで途端にお腹が減ってきた。リッカはニヤッと笑い夜中でもやっている美味いと評判のラーメン屋に連れて行ってくれた。こんな夜でもやっているのか、やっぱり都会はすごいな等と思いながらぼくは真夜中の高円寺を歩いた。そして、本当にサタデー・ナイト・フィーバーだったなと笑いながらぼくたちはあっという間に大盛りラーメンを食べ尽くした。 (つづく)

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